「3+1=5」にマルをつけた数学者が語る、子どもの算数の見守り方 間違いを否定せず、考えた道筋を共有しよう

(2021年6月18日付 東京新聞朝刊に一部加筆)
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神戸大大学院理学研究科教授の谷口隆さん

 数字に興味を持ち始める3歳ごろから、子どもたちは時につまずきながらも、だんだんと数の世界に親しんでいく。算数は正解・不正解が分かりやすいだけに、子どもの間違いや、得意・不得意を気にする保護者も多い。算数の基礎を学ぶ小学校低学年くらいまでの段階で子どもが苦手意識を持たないよう、周りの大人はどうサポートすればいいか。数学の専門家に聞いた。

「5だね」…新たな一歩を大切にしたくて

 「3+1=5」。子どもが足し算の問題にこう答えたら、学校の先生も保護者も、普通は「×」を付けるだろう。

 ところが、「○」にした数学者がいる。神戸大大学院理学研究科教授の谷口隆(たかし)さん(44)=代数学=だ。当時3~4歳で、足し算を覚えて間もなかった娘に口頭で尋ね、「5」という答えを「そうだね、5だね」と○にした。正解の「4」も教えなかった。

 谷口さんは「答えは一応3より大きいし、また7や8のような見当外れの数でもない。何より、それまで指を使って足し算をしていた娘が、初めて指を使わずに導いた答えだった」と振り返る。「いずれ足し算はできるようになる。指を使わずに足すという新たな一歩を大切にしたかった」

誤答にも、部分的には正しい推論があった

 現在は小学生の長女、幼稚園児の長男の2児の親でもある谷口さん。算数に取り組む2人の様子を観察し、誤答にも常に理由があり、部分的には正しい推論をしていることに驚いた。こうした発見を、近著「子どもの算数、なんでそうなる?」(岩波書店)でも紹介している。

図解 子どもの誤答、どう考えたの? 谷口隆さんの娘が小学2年生の頃の実例から 「250mm=70cm」と答えた娘に 「どうやって考えたの?」 「250を200と50に分けたの」 「それで?」 「200mmは20cmでしょ?」 「うん」 「だから、20+50で70cm!」 なるほど、50mmの方は5cmに直さずに足してしまったのか ↓ 考え方の道筋は正しかったこと、どの部分で間違えたかが分かる ↓ 適切なヒントを出せる

 子どもは考えた答えを誤りだと否定され、正解だけを押しつけられるうち、自分で考える意欲を失っていくという。谷口さんは「ある時点で誤った認識をしていても、月日がたち、学びが深まるにつれて、自ら誤りに気付いて修正する力が子どもにはある」と話す。

無理に正解に導かず、どう考えたかを聞く

 とはいえ、誤答は気になるし、テストで×が付いていたら解き直させたくなるのが親心。どのように声を掛けたらいいのか。谷口さんは「どう考えてその答えを出したのか、正解にたどり着けずに困っているかどうか、の2点に注目して」と助言する。

 無理に正解に導こうとせず、まずは子どもの話をよく聞く。子どもの考えを想像で決めつけず、なぜそう考えたか教えてもらい、納得できる部分は共感して、感心したり面白いと思ったりしたら、子どもにそう伝える。「誤答でもよく聞くと『へ~、そんなことを考えていたのか』と思わされることは結構多いですよ」と言う。

 「行き詰まって困っているようなら、ヒントを教えて困難を取り除いてあげればいい。話を聞いてほしそうだったら聞き役になる」。子どもが必要とするサポートは個々のケースで異なる。どのタイミングで、どう働き掛けるのが一番効果的かを考えながら、子どもの様子を見守り、助け舟を出そう。

今だけを見て「苦手」と決めつけないで

 長い目で見て算数の力をつける上で大事なのは、自分の頭で考える姿勢だという。谷口さんは「自分で考えてたどり着いた答えは、正誤にかかわらずすてきなもの。正解を教えたり、誤りを訂正したりするのに躍起になるのではなく、子どもが考えた道筋を一緒に楽しんで」と訴える。

 「現時点だけを見て『この子は算数が苦手』と決めつけたり、口にしたりするのは避けてほしい」とも。心身の発達と同じように、算数の学び方や進度には個人差がある。「その子が自分なりのペースと関心の持ち方で学んでいるのであれば、焦らなくて大丈夫。大事なのは、一人一人が自分に合った形で算数を学んでいくこと。それこそが本人にとって糧となる」と話す。

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谷口隆さん著「子どもの算数、なんでそうなる?」(岩波書店)

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なるほど!

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グッときた

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  • きゅうちゃん says:

    どうしてそう考えたかを聞くことはとても大事だと思います。すぐに正解を指摘して終わりにするのでは何につまずいているかわかりません。ただ、この例では、コメントなども見ましたが、もう一歩進んで考える問題点があると思いました。

    1㎝は10mmと理解していることはわかりました。しかし、50mmを5cmにできないのはどうしてなのか。うっかり換算を忘れたのかなと思いますが、それは250という数を200と50に分けて考えることに起因していると思います。200と50ならわかりやすいです。

    すると、まだこの子は、まとまった大きな数字を、そのままで把握することができていないのではないか。できていれば、すぐに正解できるはずです。ここが問題点ではないでしょうか。

    桁数が大きくなっていって、足し算引き算のみならず掛け算割り算となったときに、数を200と50と分けていては、正解へはたどりつけないのではと心配です。

     

    きゅうちゃん 女性 60代
  • 天才 says:

    むしろ小学二年生でこんなに自分の思考プロセスを説明できる時点で、間違っててもすごいと思いますよ。うちの子はなにを聞いても「わかんない」「そう思ったからそうなったの」ばかりでこんなに思考のステップのトレースができません。それでも頑張って聞こうとすると集中力が切れてぼんやり遠くを見はじめ、全てを忘れてしまいます。

    考えた道筋が見えないことのストレスは相当です。

    天才 男性 40代
  • 子どもはよく遊べ says:

    中学受験を控えた頃の息子と、よくこのようなやり取りで、思考の筋道から、間違えた分岐点を探す作業をしていました。
    子どもに物を教えるのに、こういった対応をするのはごくごく当たり前だと思ってましたので、いろいろと反響があるのはそうなんだ〜という感想でした。

    ただ、日本の学校のような、層別されてない子どもたちの集合教育の場で同じことをするのは難しく、せめて習熟度別になっていればできることもあるのだろうなと考えずにはいられません。

    ところで、注目を集めたと思われる採点を、マルにするのかどうかは、その時の状況でも変わると思いますが、考え方があっていれば、最終的に答えが違っていても満点に近い部分点がもらえることは割とありますから、そういう対応もあるんだろうな、とは思いました。

    子どもはよく遊べ 男性 50代
  • 真逆の考え says:

    谷口さんの記事にある≪算数の基礎を学ぶ小学校低学年くらいまでの段階で子どもが苦手意識を持たないよう、周りの大人はどうサポートすればいいか。≫という、無理に正解に導かずにどう考えたかを聞くという姿勢に教育・指導のあり方を思います。

    自分で答えを追い求める未就学の、この子の≪指を使わずに足すという新たな一歩を大切にしたかった≫こと、感銘します。こうした親の姿勢に感動します。

    真逆の考え 男性 60代
  • 間違いの中にしか新しいことは says:

    間違うことからしか本当に新しいことは生まれてこない

    今では当たり前に見かけるインクジェット式の印刷機

    ある大企業が誤ってインクのノズルにはんだゴテを誤って接触させてしまったところインクが飛び出した

    そのことが元になってインクジェットの最初のプリンタバブルジェットインクプリンタが開発された

    また某アメリカ計算機会社ではchanceと書くところを間違ってchange
    とかき可能性が開かれたという

    間違うことを禁止すると真に難しいことにチャレンジしようとする意識を失うようになる

    正しいことだけが全てではないのだ

    54歳施設通学中

    間違いの中にしか新しいことは 男性 50代
  • きなこ says:

    かっこいい考え方。
    さんこうにしたいとおもった!!

    きなこ 女性 10代
  • 教師のバント says:

    私は数学の教員ではなかったが、このような考えが現場に下りてくると、生徒は勿論、担当者も相当混乱すると思う。谷口氏はあくまで研究者で、氏の思考は現場には不釣り合いである。もっと噛み砕いて頂けないものか。教室では数学を理解させるというよりは、むしろ物の考え方の一つを学ばせるという側面が強い。「何でもあり」のような雰囲気が蔓延すると、基準が見つけにくくなり徒に生徒を迷わせてしまう。ギフテッドの発掘ならば、それは別の話である。

    教師のバント 男性 50代
  • 自由発想と教育は別物! says:

    教育は正の洗脳である。こんな事は明白でそれと子供の自由発想力を同じにしてはいけない。異なる事を認識もせず同じ土俵の上で結び付けては話しにもならない。発想力を教育する事は出来ないのだから。

    自由発想と教育は別物! 無回答 40代
  • 匿名 says:

    学びの可能性って今その時じゃないの?
    親の指摘は可能性潰しで周りの指摘は可能性潰しでないとかよくわからない

  • ちゃ says:

    今の日本の学校教育はとてもしっかりしていて、小学生になると、寝言でも自動的に3+1=4が言えるように繰り返し繰り返し言わされますし、正確な答えは言えるようになります。

    それより問題に感じるのは、かけ算九九は暗唱できるのに、『3人それぞれに6個ずつ配るには何個必要?』と問いかけた時にポカーンとする。「サブロク…?」と問いを変えると「18!」と即答できる。 空論と実態が一致していない事の方があとが大変。

    このお子様は学校で学ぶ前段階。空論と実態を一致させる演習をエラーも繰り返しながら実習しているので、小学4年生以降に必ず伸びてくる子ですね。

    ちゃ 女性 40代
  • 匿名 says:

    間違っていても、考え方の道筋をたずねる、ということは良いと思うけど、マルにするっていうのはやり過ぎでしょう。なんか、「こう言っておけば、今の時代イイネが集める」みたいなマーケティング的な意図が透けて見えるのがイヤ。

     男性 40代
  • 匿名 says:

    この子はすごいね。この年齢にして「近似値」という概念を理解している。

  • 匿名 says:

    間違いを頭ごなしに否定しない、というのは悪くないと思いますが、それでその子はいつ自分の間違いに気付き、正解にたどり着くことが出来るんですかね?

    ある程度頭のつくりが良い子なら自分で気付けるかも知れませんが、人によって頭の性能が違うので、この方法で効果があるのは非常に限定的なケースではないでしょうか。

  • 小言おやじ says:

    子供の成長は親の成長にもなるんですね。

    小言おやじ 男性 70代以上
  • エイドリアン says:

    3+1=5 と応えた子供に、そうだねと応えるお父さん。心が温かくなるエピソードだと思います。この数学者のお父さんとお嬢さんの場合は、これが最善だったのでしょう。この事例の賛否は分かれそうですが、実際は子供と大人との関係性により違ってくると思います。

    一人で何十人もの子供を、限られた時間の中で指導し、評価しなければならない教師であれば、〇にすることはできないでしょう。

    ずっと近くにいて見守り続け、その先々も必要に応じてはたらきかけができる立場の大人であれば、あり得るでしょう。

    数学として妥当か否かというよりも、子供の答えに対して、どう応じたらよいか考える機会にしたいと思いました。

    エイドリアン 無回答 無回答
  • kanako says:

    いろんな意見が書かれているので、私も。「いずれ足し算はできるようになる」と思える親かどうかが肝だなと感じました。「正しい答えを教えないなんて」「他の子に間違いを指摘されたらどうする」とか、全くもって些事です。子供の教育において大切なのは、親が先回りして子供の学びの可能性を潰さないことと、子供に全幅の信頼を寄せること。子供の教育は、親自身の教育でもあるということを忘れてはいけないと思います。

    kanako 女性 50代
  • 匿名 says:

    間違いは間違い。間違ってるよって言うのも大丈夫だと思いますが…。
    5が正解と周りに自信満々に言うようになったらそれはそれで周りの目はどうなるのかなと。考え方としては否定するつもりはないですが子供の周りは子供なので。

     男性 40代
  • こども数学者 says:

    次男が8歳の時、「1から100まで足してごらん」と言って紙を1枚渡しました。彼は、しばらく考えて、左端に1と書き、少し離してまた1と書き、次の行では今度は左端に2と書き、少し離して1と書き、と続けていきました。ゆっくり考えながら49行目に来て、49と書き少し離して1と書いたところで、嬉しそうに顔をあげ、「5050」と答えました。内心ものすごくびっくりしましたが、「その通り!でも何を書いてたの?」と聞いたところ、「1があると99を足せば100になるでしょ?2なら98、そうやって49まで来たら51があった。あと50と100が残っているから全部で5050になると思ったの。」

    これはガウスが8歳でやったと言われる伝説と同じ話です。その時初めて私および全世界が今までおかしてきた間違いに気づきました。伝説は、「あれはガウスだからできたのだ」と結論します。そうではないのです!フツーの子供なら誰でもこんな事ぐらい出来てしまうのです!

    次男は別に大成する訳でもなく、今はフツーに結婚してスイスに住んでいます。ただ、その時思ったのは、子供たちの脳は私達が考えるよりも実は遥かに優れている、という事です。ガウスに由来する伝説は、「誰でも同じことができるのだ、」という言説に置き換えなければなりません。

    70にもう直ぐ手が届く今も、私はアメリカの大学で現役教授として教えています。学生に伝えることは、「あなた達の脳は、あなた達が思うより遥かに優れているのだよ。それを伸ばす事ができるのは、あなた達だけなんだ。だから試験なんかで脳にストレスをかけて壊してしまってはいけない。いつも楽しくして、そして脳がハッピーになるような生活をしなさいよ。」という事です。

    教室では常に学生の方を向き、笑顔で教えています。微積分だろうが学部専門課程だろうが大学院の講義だろうが、教室には白墨数本(色付きのも含めて)だけを持っていき、1時間の理論展開をします。計算も証明もその場で板書して教えます。一行一行にどんなアイディアが隠されているのかを説明しながら。優れた学生達は同時進行で吸収してくれているのがわかります。

    現代のストレス社会が子供達の脳を蝕んでいる今、私たちの使命は、子供達から数学のストレスをできる限り無くす事だと考えます。私に出来てChatGPTに絶対できない事:それは笑顔です。

    こども数学者 男性 60代
  • タテ says:

    数学は、算数の意味があるのか、その考えが、哲学的な事を意味するのか。学説がありますよね

    タテ 女性 40代
  • カマ.ハル says:

    僕も子供のころ算数が苦手でした。この大学の先生の考え方が良い悪いは.別にして小学生のうちはもう少し算数に興味をもてるように遊びの中でも数字や図形に感心をもてるようにしたらいいのでは

    カマ.ハル 男性 50代
  • 匿名 says:

    「統計は人をだますためにある」とはよく言ったもので、例えばバス停の時刻表で、「1時間に2本しかない時間帯と3本ある時間帯ではどちらがバスがよく来るでしょう」というようなもの。

    「よく来る」が「すぐに来る」という運転頻度を問題にしているなら、2本しかない時間帯の方がよく来る、待ち時間が短いということはよくあります。約20分間隔のダイヤが操車の都合で「20  41」と出ているのと、約30分間隔のダイヤが「01 30 59」と出ているようなものです。有効数字の桁数が一桁である場合にはとりわけ私たちは騙されやすいので、一桁の数値を話題にするときには特に注意しましょう。

    もちろん単なる数値演算なら「1+3=4」が正しいのであって、「1+3=5」は間違いになります。そろばんはそうやってはじきます。「4」と書くものを「5」と書かせるのは定義そのものにかかわる重大な誤謬で、言葉の定義や表記を自分の都合で勝手に変更することは、人々の言語交流を根底から破壊しますから、相互信頼、社会秩序にかかわる問題です。「丁寧でない」人が「丁寧に」と自己評価するようなものですね。

  • 匿名 says:

    測定などに携わると 3+1=5 なんてことは日常的に起こることで、別に珍しくもありません。5-4=0 や 5-5=1 などもしょっちゅうです。有効数字と四捨五入のいたずらです(すでにどなたかが話題になさっているならごめんなさい)。話はそれますが、一票の格差が 2.35 倍などというのも無意味な議論です。1人区がある以上、選挙区の議員数自体には0.5人から1.499…人までのバラエティーが許容されているのです。議員をなしにするわけにはいかないし2人は多すぎるしという事情ですね。つまり1人区を許す以上は3倍程度の格差は当初から織り込み済み、というわけで、ではどうすればよいかというのはもうお分かりですね。

  • たけぴん says:

    投稿、失礼いたします。
    初めは失礼ながら「何のことか??」と思ってしまいましたが、最後まで読んでよくわかりました。ちょうど初めて塗り絵をした子供たちが、ほとんど枠に囚われず自由に好きな色を塗るイメージを思い浮かべましたが、そんな理解でおります。

    さて、その子一人ひとりの成長にあわせて、自分で考えられることを評価するという点では同意します。自分で考えたという過程を評価してあげることは、小さい子にとって単に正解を得たということよりももっと大切な自己肯定感や自信を育てることになるのでができるので、数学でもまず自分でできたこと、考え方だけでもできたことを褒めてあげるのは大切ですよね。

    一方で、数字は抽象化された”決まり”でもあるので、1+3=5で良いとし、4をしばらく教えないというのは相当勇気がいるなと思ってしまいました。私などはすぐにりんごやミカンを持ってきて、「考えてごらん」とやってしまいそうですが・・・笑。

    たけぴん 男性 50代
  • 匿名 says:

    言いたいことはわからなくもないけど、「数学者」というのはあくまで数学のプロであって幼児教育のプロではない
    記事タイトルにまで数学者という肩書きを載せて権威づけをするのは少し違う気がしますね

     男性 30代
  • shoyo3 says:

    この記事及びコメントを読んで、考えさせられた。
    それは、ほとんどすべての人が、「3+1=5」は間違いで、「3+1=4」が正しいということを当然のこととして議論していることに、視野狭窄を感じたからである。

    <「1+3=5」であるという証明>
    3つの証明を考えた。
    証明1:「屁の河童」とは、「造作ない」という意味である。即ち、ヘ(1)+カッパ(3)=ゾウサナイ(5)である。
    証明2:1とは、1以上2未満の数である。3とは、3以上4未満の数である(※1)。であれば、代表値として1.5と3.5とするのが妥当である。故に、1.5+3.5=5である。
    (※1)例えば、30代の男性とは、30歳から39歳までの男性である。
    証明3:「1+3=5」を証明することは、「10+30=50」を証明することに等しい。「10+30=50」を8進数で表記すれば、「12+36=50」となる。従って、左辺(10+30)が10進数表記、右辺(50)が8進数表記だとすれば、「10+30=50」となる(※2)。
    (※2)これを屁理屈だというなら、「一足す三(1+3)はfour(4)である」は、屁理屈ということになろう。
    以上の証明において言いたかったことは、「前提条件」次第で、「1+3=5」は「真」となる、ということである。

    <「1+3=4」であるという証明>
    私は数学に疎い文系人間なので、基本的なところを確認しておきたい。
    公理とは…(略)、証明とは…(略)
    「1+3=4」は「公理ではない」ので、「証明」を必要とする。
    では、「1+3=4」は正しく、「1+3=5」は誤りであることは自明であるとしている人は、これをいかに「証明」するのか(どのような公理や定理から演繹されるのか、前提条件は何であるのか)、無知な私にぜひわかりやすく教えていただきたい。

    <コメントのコメント>
    興味深いコメントが色々あったのですが、ここではその一部(※3)にコメントしたいと思います。
    (※3)2021/06/29 03:33、2021/06/25 16:38、2021/08/22 11:47、2022/06/29 19:59、2022/12/01 16:14のコメント

    このコメントに興味ある方は、「大人への問題:1+3=□ の空欄を埋めよ」でweb検索してみて下さい。

    shoyo3 男性
  • 市井の母 says:

    公◯式の教室でしたら、先生が赤ペンでチェックをして、100点ではない状態で返却されるでしょう。どうやって答えを導きだしたかなんて誰も尋ねてくれないですし、解いた本人も深く考えることはないと思います。
    過程の価値に目を向け、耳を傾けて下さる大人が側にいることは、素敵なことです。もちろん、一発正解が一番素晴らしいのでしょうが、計算に限らず、それぞれの子に、その結果を導き出した、それなりの理屈があります。

    市井の母 女性 50代
  • ひでさん says:

    7歳の孫がいます。算数の宿題のみて、すぐに答えを「そう」とか「違う」とか言ってしまいます。ちょっと立ち止まって「なんで」とかどう考えたのか聞いてみようと思います。「子供の算数、なんでそうなる」と「算数数学間違い探し」、脳トレとボケ防止に読んでみようと。

    ひでさん 男性 70代以上
  • 銀と金違くて同じ says:

    間違っているけどこれもまた一つの答えなんだと思いました。答えは一つではない。それぞれの考え、発想する力を持っている。それだけでもすごいことなんだなと思いました。

    銀と金違くて同じ 無回答 無回答
  • 匿名 says:

    間違いを指摘するより自分で気付かせることが重要だし難しいですね
    ソクラテスの問答法を教育に取り入れたらどんなに素晴らしいことか

  • おの says:

    こういう育て方を否定しないけど、世の親は時間に余裕がない。
    私的には「指を使わずに計算できた!」ってそんなに喜ぶべき成長なんだろうか?と思う。世の中のほとんどが10進法(人間の指が10本だから使うようになったとか)なんだから、その元である指計算は基本中の基本。
    足し算・引き算程度なら「正解」「不正解」で十分。指計算で何度もしているうちに自ら間違いが発見できる。

    >「ある時点で誤った認識をしていても、月日がたち、学びが深まるにつれて、自ら誤りに気付いて修正する力が子どもにはある」

    この意見には賛成だけど、だからといって間違ったことを〇にしていいのか?子供をバカにしていないか?って思う。

    おの 女性 50代
  • √6意味知ってると舌安泰 says:

    桁と単位は、重要 数の言葉ヒフミヨ(1234)は、単位なし(無次元)・・・
    計算できるという味わいは、3冊の絵本で・・・
     絵本「哲学してみる」
     絵本「わのくにのひふみよ」
     絵本「もろはのつるぎ」
      

    √6意味知ってると舌安泰 男性 70代以上
  • わかりやすい記事 says:

    こんなにわかりやすい記事なのに、
    それを読み捉えることができない大人が多いことに驚いた。
    ということは。。。

    わかりやすい記事
  • 岡本洋子 says:

    この記事を読み、やはり子供には正当な答えを教えたほうが良いと思う。
    間違えた内容を覚えると、後々算数ができなくなり、さらに算数が苦手になる。

    岡本洋子 女性 40代
  • 棍棒坊さん says:

    子供に判断を誤ることに対する恐怖を植え付けては駄目ですよ。
    私は法学部卒ですが、思考のプロセスの大切さを教授たちはしつこく学生たちに説いていました。人間は、プロセスを修正しながら、本当の正答へといずれは辿り着く、そういう生き物です。

    実社会では過程はどうでもよくて、結果がすべて、とかよく言いますが、これも相当に近視眼的な発想ではないですかね??実社会の問題解決でも、一旦エラーを引き起こしたので、ここのこの過程を修正しましょう、なんてことはいくらでもあります。(金融工学のEA開発では常識です。)

    あと、所詮は子供だから間違えてもいいんだよ、的な甘やかし論も当を得ていないと思います。子供の潜在的な可能性を馬鹿にしています。

    この記事の数学者さんは、子供と寄り添って、一緒に考えようと優しく促しています。それが本当の優しさだと思います。

    ①誤りを恐れない精神こそが大切であり、②誤ったら、一緒に優しくていねいに、人間関係の目上目下の区別なく一緒に考えることこそ大切、③結果至上主義はいずれにしても非人間的であり、それが、現代の歪んだ構造の社会を生み出したのです。

    子育ての段階で、誤ることに対する恐怖に支配された子供が、やがては大人になり、人の親になり、結果至上主義の悪しき連鎖を生み出した。この負の連鎖をぶった切る、良い例だと記事を見てぼくは思いましたね。数学に限らず、万事に通じると思います。

    棍棒坊さん 男性 30代
  • パパス says:

    4歳の息子が居ますが参考になりました。

    足し算を教えている時に間違いに対して、違うなー、こうやって数えるとこうだよね!とすぐ訂正して答えに導こうとしましたが、やる気を無くさせてしまいました。

    小さい子の目線に立った接し方や導き方があるのだと分かり感心しました。
    勉強もスポーツも入り口は関心を持つこと、楽しいと思えることが大事だと自分も思っています。
    これからは子供の目線に立って一緒に理解しながら教えていこうと思います。

    パパス 男性 20代
  • 水泳部 says:

    数学的には×だけど、小学校低学年の算数なら〇でいいと思う
    正解を押し付けるだけの詰め込み型の教育では人間はいずれAIに勝てなくなる

    水泳部 男性 40代
  • ジャストミート(ただの肉) says:

    基本的に、筆者が提示するこの、思想に行き着くまでの過程について、非常に重要な考え方であると感じた。この考え方で養われるものは、“自分が知らないパターンの問題に出会った時、自分の知っている範囲内の技量で解く力“である。

    この提示された式は、解に行き着くまでの過程で一部間違えているため、答えが違う。テストなどでは、模範回答と同じ答えであることが望ましいが、練習の中では正しい解を導き出すまでのプロセスを強化するべきである。

    答えには、実際の答えに近いものと、遠くかけ離れた答えとの2種類が存在する。考え方が進歩しているからといって、丸にすることはモチベーション以前に、間違えていること。だが、考え方が進歩していて、答えまであと少しということは、まるっきりバツというわけでもないだろう。

    私だったら、ただ単に、丸かバツかではなく、この問題にはサンカクをつけるだろう。そして、この筆者のように丸を書くだけで終わらせず、その子が考えた思考回路を図に表し、どこまであっていて、どのところで間違えたのか、どうすればあっていたのか、というところまで教える。

    世の中には、このような学問だけでなく、何においても、単なる丸やバツで表すことの出来ないものが存在する。そのような時、どのような判断を下すか。一般の常識である問題の正否をつけるだけ、という考え方について深く考えることができる話題であった。

    ただ、なんとなく、サムネ詐欺のような、人々が驚くような話題に対しての言い訳のようなこじつけた考え方のようにも見えてしまった。だが、難しい話題だが、ただの「算数」でも、立派な学問のうちの一つであると改めて実感できるものであった。そのような考え方が広く伝わっていくことを切に願う。

    ジャストミート(ただの肉) 無回答 無回答
  • 匿名 says:

    個人的には、小学生が方程式を使って問題を解くというような、『どんな手段であれ答えが出ればいい』という考え方が現代のぎすぎすした世の中を生んだと考えているので、この学者さんの考え方に共感する。
    私は高卒に過ぎないが、出身高校の考え方がそんな感じで、多感な時期にその環境に身を置いていたからか、いまだに結論を急ぐ時代に違和感しかない。
    こういうおおらかな考え方が広まるといいと思う。

     男性 40代
  • 子の親 says:

    >基本的に、間違っているものを正しいと言うのは子どものためにならないと思います。
    >子どもが算数を嫌いになるのは自分の理解力を超えることを教えられるからで、
    >間違っているものを正しいと言われて好きになるものではないと思います。

    これは年齢や段階によって異なります。興味を持ち始めた入口の3歳や4歳の場合、間違いを逐一指摘することは、本人の関心離れを引き起こして、別の楽しいことを探し始めるでしょう。

    逆に正解と間違いの判定を厳密に求めている小学生に曖昧にすべて正解と返すと、きちんと判定して!と怒られるでしょう。

    子の親 男性 40代
  • 匿名 says:

    部分点をつける考え方か。
    それはいいけど基本的な間違いを正解にするのは子どもにとって良くないと思うんだが。

     男性 40代
  • Teddy says:

    あらゆる手段で正しい答えを導き出すことが大事なのに、手を使わなかったからと言って間違った答えを肯定してしまうのは腑に落ちない。
    過程は肯定しても間違った答えは否定しないと、過程が大事で結果が軽薄になってしまわないのだろうか。

    私は、「こんなに頑張っているのに社会は認めてくれない」って人が嫌いなので相入れない。

    Teddy 男性 40代
  • 匿名 says:

    足し算の正解を親が教える必要はないでしょう。10進法なら正しい答えでも、2進法なら、どうなりますか。1+1が2にならない世界もあります。
    子供が足し算に興味を持った時、突然70+70は140だよ、と言い始めた。「どうして」と聞くと、7+7は14だから。でも、もしも7+7が14でないなら70+70は140じゃない!
    どうやら10で繰り上がる世界を自分で発見したらしい。でも、もしも10で繰り上がらないなら、(10進法でないなら)違う答えになるという事まで気づいていた。

     女性 60代
  • 匿名 says:

    基本的に、間違っているものを正しいと言うのは子どものためにならないと思います。
    子どもが算数を嫌いになるのは自分の理解力を超えることを教えられるからで、
    間違っているものを正しいと言われて好きになるものではないと思います。

  • ハスラー says:

    そうですね。
    我が家では単にマルとバツだけでなく、どこがあっていてどこが間違っていて、どうすれば間違えないかを教えていました。
    考える道筋が分かりますのでうちの子は成績がどんどん伸びていきました。
    高学年になると私が(あれ?こんな公式あったっけ?)となってしまうこともあったので、親も学び直しが出来てよかったですよ。

    ハスラー その他 30代
  • 夏色123 says:

    たしかに子供の間違いを正しくせず肯定して的確なヒントを出すいい考えですね

    夏色123 男性 10代
  • ハッセ says:

    この解答に対しての対応の仕方は素晴らしいと思います。このような対応をしていけば、将来理数系に強い子になるのではないかと思いました。

    ハッセ 男性 30代
  • ヒデちゃん says:

    考え方 なんとうり もある。
    私も 色々と あらゆる方法で 考える。
    頭が おかしいと 自分でも 思うが 
    これが私の手法 遂に 結論を見出して  楽しむ。
     
     戦後の 教科書 も ない時代 に
    素晴らしい 先生が
    おられた 幸せの 時代を生きた。

    子供は 無限の可能性 

    ヒデちゃん 男性 70代以上
  • サウザンドリーブズ says:

    すばらしい。
    この余裕は数学者だからこそだろう
    たいていの学校は低レベルの教条公式主義教師によって数学や算数は徹底して、つまらく押付けられる科目になる
    あるいは公文式のように考えないでアルゴリズムを使えればよしとする「考えない」計算が主体の科目になってしまう

    サウザンドリーブズ 男性 50代
  • ファルコン says:

    計算の過程が大事である事をこの親は子供に教えていて素晴らしいと思う。そこで3+1=4だろ!?どう考えても!と頑なに自分の意見を変えないうちのような頑固な親父が教えた場合は型にはまった人間しか育てられないと自身を見てそう思う。柔軟さがなく、ダメなものはダメ。確かに社会に出れば善悪の判断ができてこれは正しい、これは犯罪行為だと教える事は必要ではあるが、それだけでは新人類を世の中に生み出す事は今後不可能。全員が全員同じ事を考え結局別の視点から助かる方法を考えられずに全員沈没して死亡と言う事態になりかねない。一人でも違う発想ができたのなら何人かは助かっていた事故事件はこの世に多数ある。極端な発想をできる人は人類の希望でもあり脅威でもあるが全員を脅威と決めつけてしまえば、そこで人類の新開発も無くなってしまう。映画「暴走特急」でテロリストが新型兵器「グレイザーワン」の開発に成功した者らに対して国家の関係者は「まともな頭からはこんなユニークな兵器は産まれません」と言ってる様に一般常識にとらわれていると新たな開発は不可能となる事を知ってもらいたい。

    ファルコン 男性 40代
  • nalu says:

    なぁるほ〜ド

    nalu 男性 60代
  • 匿名 says:

    長さの問題で、小学2年生が自身の答えまでの理論をきちんと伝えきれていることが素晴らしいと思う。自身の行動や思考を言語化するのて、子どもに限らず意外と難しいものですよね。

     男性 30代
  • 匿名 says:

    3~4歳ならまだ頭で数がイメージできず、具体物として目の前にある手と指を使って数える時期だと思うので、それをせずに3+1=5というのはこの年齢にしてはよく数のイメージができるお子さんなのではないかと思いました。
    6以上だと数える指が両手にまたがりますので、ちょっと違うかなというのがわかっているのですね。さすが数学者の先生のお子さんですね。
    そもそも数学的抽象思考ができるかどうかは、年齢や発達段階によって違いますので、幼児期のお子さんにはこの先生のような対応も必要になる……というか理想だよなあ、と感じます。
    幼児教育にも関わる教室で働いているのでこの記事は勉強になります。13歳くらいになると大人の思考回路に近づくのでだいたい算数の教科書で習うようなことはみんな難なくイメージ出来るようになるんですけれどもね。

      
  • 匿名 says:

    数学と数学教育とは全く別分野ではある。

      
  • 匿名 says:

    立川志の輔の落語、『親の顔』の話を思い出しました。

      
  • 匿名 says:

    自分に合った形で学ぶことができるなら希望がある。どうすれば実現できるかを大人は考えなくてはならない。私だって子供の頃自分に合った形で学ぶことが出来ていたら、自分はダメな子だと思わなかっただろう。幸いその思いから抜け出すことができて大人になった。でも、もし孫が3+1は5だと言った時、うまくはなせるかどうか自信が無い。どうしてそう思うかを聞くことはできる。そのあとは子供の思いを聞いて自分の感覚で対処するしかないだろう。

      
  • 匿名 says:

    私が高校生くらいの頃には既にこうした教育に関する議論はありました。
    「教育って何?」という課題はいつの時代もあると思います。
    今のいわゆる学校式の教育は文部省が定めた知識を養うカリキュラムであって、「どう考えたか」「考えるに至る根拠」「なぜそう思うか、判断したか」などを思慮を育てるものではありません。

    今の日本の多くの高校や大学がその延長に有れば、教育の限界は容易に想定出来るのに、文部省はそれをやっ来ず、従って、今の浅知低質な人間が人の親となり、米国のような多種多様な民族、宗教、州によって違う教育の現実ならいざしらず、同じ民族なのに「親を殺す」「子を殺す」「友を殺す」「仲間を殺す」などの単に自己都合の我欲に見舞われた利己的な人間を作り出すのは、目に見えてくるのではないでしょうか。

    少し飛躍した論理とも取られがちですが、一時が万事、その変化は「ウィンドウズ・ブレーク現象」のように、ヒタヒタと静かに成り立っていくものです。

    長期的に「どのような人間を作っていくべきか」を礎とした「教育方針」をきちんと形成していかなければ国民の性格、いわゆる国の本質的な形が成り立っていかないことは、昔からある論議だと思います。
    今は政治家、教育者ともに目先のことばかりを議論してます。

    この先生のその子への目の付け方は、人としても教育者としても「正しい」のではと思います。

      
  • 匿名 says:

    5と答えたのが3〜4歳であることと、それが7や8だったら違う対応をするであろうこと、それに将来修正出来るであろうと織り込んでいること。小学校2年生で長さを誤ったケースは正解に導いていることなど、手放しで正解にしている訳ではなく丁寧に向き合っていて良い話だと思う。

      
  • 匿名 says:

    3.4歳ならそもそもが足し算と言ってもコレ位の塊とコレ位の塊が「片手の中に入ると」まあ、大体コレ位になる!

    って事を理解していれば良いので

    目くじら立てて4だ!ってのは親が3歳の子供相手に「正論」を言ってる!と主張してるのと同じ!

    この意味は

    3+1<5 の範囲内って意味なら正解でしょ


    おおよそコレ位になるんだろの意味であり、それこそが子供の目線で考えて、その答えではなく、その考え方を子供がどう考えたのかを知る事から始まる

    1+3=4ってめくじら立てなくいいんだよね

      
  • 匿名 says:

    ○か×だから話が難しくなるけど、考え方にマル、答えの正確性に対して×、という戻しができれば理想的だと思う。なかなか○か×かだけでは難しくなっているのだなと感じました。

    久しぶりにニュースに対して本気で考えてしまいました。編集の方の思うつぼになってしまっていると思いますが悔しさはありません(笑)

    ニュースに対しての批判をされる有識者?評論家先生?が多いですね。代案を出さなければ社会の一員として生きる上ではバツなのに。という問題提起を是非是非していただきたいです。

    このニュースを書いた方とGOを出した方には伝わると思って勝手に信じてます。あ、もちろん勝手に信じてるだけなので、「その点があったか!」というニュースがまたみられることを楽しみにしております。

      
  • 匿名 says:

    すごく良いことてますね。小さい時は創造力育てることが大事だと考えます。
    「3+1=」だけを見て、正解は4しか無いと考えてしまう時点で、数学という学問に我々は洗脳されてしまっているとも言えます。これは、前段に「数学の計算式ですよ」という定義があって4が正解ということが成り立ちますが、「3+1=」だけ突然出されたら、捕まえ方で答えは無限にあります。数学を知らなければ何の暗号かと。。。
    これ、図形ととらえて考えますと、3に1(棒)を書き加えれば5っぽく見えますよね^_^。

      
  • 匿名 says:

    この記事中身がそれっぽいこと書いてあるけれど「3+1=5」というタイトルに“?”と感じて、ついポチっと押させるのが目的なのでは。結局、このサイトに引っ張り込む=広告な露出を増やすことが目的なのよ。こういうこと書くと非公開にされちゃうかな。記事タイトルに見事に釣られた〜という印象です。

      
  • 匿名 says:

    いいことだと思います。そもそも算数、数学は定義によるところが大きい。その子はまだその定義を知らないで答えたと思いますので、その子がどのように定義したのか、大変興味深い。

      
  • 匿名 says:

    あまり良くないと思います、
    全部を否定する訳ではないですが、違う事は違うって伝える事は必要では?
    この理論で言うと、例えば社会のルールを破っても理由があれば大丈夫なの?って極端ですが、、勘違いする子になりませんか?

      
  • 匿名 says:

    教えて逆ギレされるより、怪我しないとわからない 

      
  • 匿名 says:

    変に甘やかすより厳しくされた方が「私はパパに期待されているんだ頑張ろう!」って考えられない子もたくさんいると思うけど。
    パパと数字遊びできて楽しかっただろうなー。遊んでる間に算数得意になれそう。

      
  • 匿名 says:

    3も1も5も4も区別がつかなく理解をしていないようだったらマルというのもどうかと思う。
    叱るというのは良くないが間違えた答えを覚えてしまったらどうするのかね

      
  • 匿名 says:

    変に甘やかすより厳しくされた方が「私はパパに期待されてるんだ頑張ろう!」って考える子もたくさんいると思うけど。「✖️1回貰ったらやる気ゼロ」前提かよ。子供舐めすぎ。

      
  • 匿名 says:

    教える側の意識改革を訴えて「正解かどうかだけで考えず、全体の文脈をよく観察しようね」というお話なのに、コメント欄には、話の本質を無視してちょこっと触れただけの体験談にある不正解がどうしても許せない人達がこんなに…。
    記事を読みながら「当たり前の事」ぐらいに感じていましたが、実践出来る人は少なそうですね。

      
  • 匿名 says:

    3+1=5なるほど、と思いました。
    3も1もそれぞれの範ちゅうで大きいものであれば5にもなりうるはず。
    すてきな先生だと思います。

      
  • 匿名 says:

    物心ついた子の学問に対する興味を伸ばすためのプロセス
    正しい答えでないものを一応に否定排除する、ということを避ける
    知らないことを一生懸命考えて答えるワクワク感を大事にしたということなんでしょうね。
    つまり知見の高い者があえて相手の気持ちに寄り添ったってこと。

    これってなかなかできないことです。
    大人になるほどね。

      
  • 匿名 says:

    後半「だけ」は納得できた。小学校も塾も算数は途中式を大切にする。それは「どこでどのように考え、間違えたのか」を明確にするため。
    記事の後半に出てきた「子どもがどう考えたのか?」は「途中式」だ。それは算数らしくロジカルに説明し、正しい解に導くための道筋。

    前半の「3+1=5に○」は問題を解決していない。「3より大きく7や8のように見当はずれでもない」? 5は見当はずれでしょ。1違ったら惜しいから正解で、3以上違ったら見当はずれなので×というのは子どものためによくない。
    後半のように「どう考えて5にしたのか」をちゃんと聞いた上で、正しい答えを導く「考え方」まで説明してあげるべき、という話なんじゃないの?
    下の人がいうように「適当に言っただけ」なのかも知れないし、「3の次の数字だということは理解できていたけど、間違って1、2、3、5だと思ってしまった」なのかもしれない。そこを明らかにせずに正解にしてしまうのは子どもにとっても良くない。

      
  • 匿名 says:

    この記事を見て孫との対話を思い出しました。小学二年生の孫によくクイズを出しますが今回、「マダガスカルは島」か? という問いに違うと答えたので、私はブ、ブーと不正解と言ったらすごく怒ってしまいました。私はマダガスカル島というので島だよと思ったのですが、孫と同じ理数系の大学生の女性と話していたらあれは一つの国なのでどうかな?と言われ気づいたのは、孫は全ての国の国旗を覚えていて国家という観点から答えたのが分かり、謝りました。
     昨日は、その女性が記述や考えを書けと言われるテストは苦手でハッキリ答えが出るほうが楽と言ったので、答えの出ないものもあるいろんな人がいるからね。と話したばかりです。
     私は、答えも大事ですがそこに至るプロセスに表れる人間の面白さや個性、黙想も大切だと思います。

      
  • 匿名 says:

    子供の思考過程を否定しない、という考えには賛同するが、それと「3+1=5」という誤答に〇を付けるのとは全く話が別。
    思考過程においてどこが足りなかったのか、それを子供にも理解できるように説明して、だから「3+1=4」になるんだよ、と教えるのがあるべき教育ではなかろうか。

      
  • 匿名 says:

    相手は5歳の子供。数の数え方や一桁の足し算などそのうちイヤでも分かるようになるので、3と1を足して3より数直線の上の方に意識が行ったことをほめたことは理解できます。但し、5の答えがあてずっぽうじゃないといいのですが。あと、5歳何か月か存じませんがもしかしたら来年小学生?そろそろ積み木か何か使ってやんわり・ゆっくりと克服させた方がいいかもしれませんね。入学に備えて周りの子が進んじゃうと逆にコンプレックスを感じてしまうかもです。

      
  • 匿名 says:

    大学の数学科出身です。
    子供の教育をしたことがないから分からないですが、子供がそれで合ってるんだと勘違いし、さらにそれ”だけ”が正しいと勘違いしてしまう可能性はないでしょうか?
    そしてそれで良いんだと思ったまま進級し、周りが正しいとされる道筋で正答した時に「あれ、自分のやり方も合ってるはずなのに?あれ(正答)は間違いじゃないの?」と思いもよらなかった形での挫折を味わうことにならないか、と要らぬ心配かもしれませんがふと頭をよぎりました。

      
  • 匿名 says:

    日頃から「ずっと数学が得意だった人は数学を教えるのに向いていない」と思っていました。なぜなら苦手な子が「なぜわからないのか」が理解できないので。分からない、解けない理由を突き止められないのに教えられないですよね。

    数学者である谷口先生はおそらく「ずっと得意」だった方だと思うのですが、間違えたプロセスを丁寧に分析していくところが素晴らしいと感じました。

    ただ学校で一度に多人数を教える場合はその分析まで手が回らないであろうことが悩ましいですね。その点をうまく解消できるシステムがないものかと思います。

      
  • 匿名 says:

    算数に限らず、何かを教えるのは大人が子供目線に立たないといけない事、沢山ありますよね。考えさせられます!ありがたい!

      
  • 匿名 says:

    2+1は、なんと答えるのか気になった。それも4と答えるのなら、1+1も3になるのかな??
    3+0だったら、答えれたのかな??

      
  • 匿名 says:

    小学一年生の算数の授業を思い出しました。
    10+3で103と黒板に書き、言葉ではジュウサンと答えてました。
    先生は、みんなにわかるように10と3を書いたんだ、と言ってくれました。
    数学は得意科目でした。
    エンジニアとして研究所や外資系企業で働き、現在に至ってます。

      
  • 匿名 says:

    3、4歳の子供に「3+1=」を教える前に、この子は「1、2、3・・・」という数字を知っているのだろうか?まず、幼児期に数字(たとえば1~10)を覚える事が大切。次に「+(たす)」「-(ひく)」と言うような定義の認識が必要でそれがあってはじめて「3+1」の議論(教育)が始まると思う。子供にとって数字は「順番」であり、「+」や「=」は記号としての認識だと思う。この場合、パズルと同じで当てはまる最適なもの「答え」が「4」であるか否か、またなぜそうなのかを教えるのが教育ではないのだろうか?

      
  • 匿名 says:

    考えたことなかった話で、なるほどと考えだした。

      
  • 匿名 says:

    思考のプロセスを大切にすることは、教育においてとても重要なこと。このような指導者に教われば、算数嫌いは確実に減る。自分の頭で考えることの重要性は教育だけでなく、これからの日本社会で最も必要とされるテーマでは?!

      
  • 匿名 says:

    幼児が初めて指を使わずに導き出した「3+1=5」を間違いだと指摘せず、3より少し増えたことで○をあげることに大賛成です。幼児がバットを持って下投げの球を打つ場合、三回空振りしたら三振で次の打者と交代としたらつまらない。ボールが前に飛ぶまで振らせる。そして野球が楽しくなり上手くなる。同じことだと思います。
    小学生になれば「3+1=4」と理解するので、無理に幼いときに間違いを指摘して、常に指を使って足し引き計算するのが当たり前になることもあるので、幼児の時点では数の大きさやその意味合いだけ理解できれば十分であり、自分で考える(自主性)や楽しさ(興味)が持てれば、私としては◎だと思います。
    しかし幼児であれ、その時点で計算の答えが違うと正解を教えて、子どもが素直に理解できるならばそれも良し。各家庭(子どもそれぞれ)によって学び方がありますね。

      
  • 匿名 says:

    3,4歳の時期での子は誰か(父親は教えない=子を否定する悪者にならない)が正解を教えるまでそれが正解と思い込み、間違いを指摘されると「パパはそれでいいと言った!私は間違っていない!」と言い張るのでは?
    思考の過程まで寄り添い否定しないという姿勢は見事だと思うが、「答えは一応3より大きいし、また7や8のような見当外れの数でもない」不正解の5は良くて78が駄目という思考は理解できません。6はどうなの?と思う。
    あと、前半3,4歳の頃。後半7,8歳 同じ子供が同じ数学の推論で似たような間違いをしているって気付かないのかな?加算数の勘違い。加算数の単位の勘違い。2つの事の後半の注意が散漫としている。そこまで分析して注意を促し自ら正解に辿り着くまで寄り添うのが教育だと思うけど、それについては触れていない。(本を読め!かもだけど)

      
  • 匿名 says:

    算数、数学は苦手教科だが、こんな教わり方をしていたら算数、数学を楽しく、深く学べ、誤答でもなぜその答えに至ったかを聞いてもらうことは学びの助けになるのはもちろん、否定しないで聞いてもらえるのは自己肯定感を高めるのではないか。そうしたらなんでそうなるのかという勉強への意欲も増すのではなきか。

      
  • 匿名 says:

    3+1=4です。これをきちっと理解したうえで初めてこのような屁理屈は出てくるものです。3+1=5では、こうした議論をするための言葉さえ通じなくなります。

      
  • 匿名 says:

    この記事を読み、まず最初に「3+1=?」というような無機質な「記号」を3、4歳の幼子に見せる(聞く)必要があるのだろうか、と疑問を持ちました。これを子供に聞かなければ、その答えが正しいか間違いであるかも伝える必要はないでしょう。私は大学院で数学を専攻しましたが、親から算数をやれと言われたこともありませんし、押し付けられなかったことで、小学校に入って、算数を自由なものと感じ、自分で勝手に勉強することができました。記事にあったように、数式の答えの間違えを指摘しない、というのは当然で、もっと踏み込んで、未就学児に対してわざわざ数字という「記号」に触れさせなくてもいいのではないかと思います。代わりに、この多感な時の子供に対して、親御さんは人間づくりに専心しても良いのはないのでしょうか。もちろん、そこでは何が正しいか、何が間違いであるかを伝える必要があります。それは答えが4であるか5であるかを伝えるよりずっと難しく重たいことです。

      
  • 匿名 says:

    この後の対応もきちんと出来るなら素晴らしいと思います。
    ただ単に次の機会に3+1=4を教えて解決するものではありません。
    子供にとっても初めての記憶、嬉しい記憶は残ります。
    なんで前と今で正解が違うのか、何が正解なのか、なんで正解だったのか、何が大事なのか、それらを嬉しい気持ちに傷をつけず説明できる方ならいいのではないのでしょうか。

      
  • 匿名 says:

    将来数学者を養成したいのならプロセス重視で構わないだろうが、大多数の人間は算数・数学を必要に応じてビジネスの場面で道具として使うのだから、短時間で正解に行き着く解法・スキルを身に付けるべきで?「指を使わずに足すという新たな一歩を大切にしたかった」というが、「3+1=4」は片手指を動かせば実現できる範囲だ。その絵的に見えている範囲であっても誤答しているのは5以下の数の概念を本当は理解出来ていないのではないか。

      
  • 匿名 says:

    親子間の中なら良いと思いますが、仮に同じように3+1=と違う人に問われて5と答えて違うよと言われら子供は訳分からんなるような気がする。パパが正しいのかこの人が正しいのか。

      
  • 匿名 says:

    現役、幼児2人の父親です。
    子どもに向き合う時間が少ない中で、うちの子は「できる?できない?」の結果ばかり気になっていましたが、この記事を読んで気持ちがスーッと楽になりました。うちの子は「どう考えている?」「どんなことに興味がある?」を大切にしたいです。

      
  • 匿名 says:

    このやり方があったのか
    と納得です。子ども達は間違って×がつくと、怒ったり、やる気がなくなってしまい×がつくという事で話を聞いてくれなくなってしまいます。結局、話も聞かずふてくされてしまう事が多いので、考え方を聞くきっかけになりますね。
    ◯の意味をどのようにとらえるのかは子どもと話をよくする必要もありますが、それも新たな話のきっかけになりますね。

      
  • 匿名 says:

    子供が、間違って答えた時の、助言や見守りかたが、すごく参考になりました。「子供の意欲や考えをしっかりと受け止めたうえで、助言する」ことは、大事に思う方は多いと考えますが、よりつっこんだ先生の考え方や具体的な助言例から、子供の考えを尊重してあげる大切さを実感しました。

      
  • 匿名 says:

    3+1=5は間違いだから◯にするのはおかしいとコメントされている方は、簡単な算数はわかるが文章読解力は無い方なのかなと思いました。3、4歳の足し算を覚えたての娘が初めて指を使わずに答えた、という状況を丸無視して間違いは間違いと教えるべきと鬼の首を取ったかのような指摘に、彼らのお子さんと谷口先生のお子さん、どちらが学ぶに適した環境にあるのか興味深いです。

      
  • 匿名 says:

    自分で考えてたどり着いた答えは、正誤にかかわらずすてきなもの。
    なんだかその考えこそがすてきで、涙が出そうに心打たれました。
    そんなふうに導いてあげたかったと後悔、、、。

      
  • 匿名 says:

    なるほど、

      
  • 匿名 says:

    大人は近道をしがち。ゆっくりと子どもに寄り添って話を聞くことが大事だな〜と感じました。結果ばかり見ないで、過程を大事にして考える力を育むことが必要だと改めておもいました。

      
  • 匿名 says:

    私の子供の頃はスパルタ指導でした 先生の指導があればもっと数学が好きなっていたかもしれません 孫に数学教えてあげたいです

      
  • 匿名 says:

    幼児教育においてはすばらしいと思います。学ぶことが楽しい方向性を優先すべきと思います。
    小学校においては、なぜ間違えてしまったのかを一緒に考えて正解に導くことがよさそうですね。
    大人においては、1円単位で間違いが一切許されない計算の場面もありますし、物事の捉え方として桁さえあっていればOKとするものもあります。
    場面場面にあわせた評価ができるといいですね。

      
  • 匿名 says:

    間違っていることを伝えたうえで、なぜ間違ったのか考えかたを聞くべきでは。

    何故間違ったのか先生が納得しただけでは?

      
  • 匿名 says:

    なるほどーそう考えてたのか!
    子供の考えてることは大人が思っているより奥深いこともあります。
    この感性の芽を摘みたくないし自分もまたこの感性を持っていたいと感じます。

      
  • 匿名 says:

    子どものころ、こんな先生に算数や数学を教わりたかった。答えだけに注目するのでなく、考えた過程こそ、先生や大人はしっかり見ないといけませんね。

      
  • 匿名 says:

    正解以外はバツと切り捨ててしまうと子供の思考の過程全てを否定することになりそうだ。そうか、そう考えたのか、そうだね、そうだねと、受け止めていけば
    親と子の会話も深まりそうだ。伊奈 鈴木

      
  • 匿名 says:

    人生を振り返って考えても、1+1=2ではなく、2−1=1でないことを、亡き主人から教わった。主人は、他ならぬ数学の教師だった。夫婦とは、家族とは、もっと深い数式であることを。子どもたちの発想の素晴らしさに耳を傾けたい。倉敷 小野

      
  • 匿名 says:

    この様な先生が多ければ、算数嫌いの子どもがかなり減る様な気がします。
    否定せずが大切ですよね。

      
  • 匿名 says:

    これは算数だけじゃなく
    いろんな場面で使えると思った
    目からウロコです
    子どもに決めつけはいけないと凄く感じさせられました

      
  • 匿名 says:

    なるほど、なるほど。
    実生活でも正確さはあまり重要でない場合もある。例えば、90円と80円のものを買おうとした場合、170円と分からなくても、200円あれば買えることが分かれば、それで事足りる。

      
  • 匿名 says:

    数学者ならではの発想に親としては脱帽です。
    簡単な計算ほど私のような数学を学んだことのないものにとって
    正確な答えを重視してしまいがちです。

    考える力を伸ばす!ということ。考え方に道筋があったのか?を汲んであげること。
    簡単な算数になると、親は簡単に答えが出せてしまうので凡人の私には
    なかなかできない。

    彼のお子さんは今後も立派な親に見守られて数字が好きな人間に育つのだろう。
    自分の子供にはもうこういった接し方はしてあげられないが、
    孫が出来たら自分も実践してあげたい。

      
  • 匿名 says:

    算数は答えがはっきり出るから好きだと思っていました。正しい答えを出すまでにはいろいろな道筋があり、その道は人それぞれに違いスピードも違うなんて素敵なんだ。
    とかく正しい答えだけが褒められるけど、答えを出すまでの道も褒めてあげたい。
    そして正しい答えを引き出すためのヒントを待っているのだろうなと思います。
    今の時代、算数だけではなく、こどもだけでもなく大人も正しい道に進むヒントを待っている気がします。

      
  • 匿名 says:

    尾木ママは、何かあると「どうしたの」と聞くとか(実は彼の場合はそれが職業なのでその臭さもあるようにも感じるのだが)?(親としての)同じ目線の暖かさを感じるのだが、これが「寄り添う」ことの意味ではなかろうか。「寄り添う」と言うのは易しいが、「効率を求める」とこうは行かない。これからはこのような暖かさが人間が持つべき人間らしさの大元、として認識せられることを望みたい。コンピュータは無限を扱えないのみならず、この手の暖かさを持つことは難しそうで、無芸大食でも人間らしくあることはできる!喜寿翁より 26/08/2021

      
  • 匿名 says:

    子供とか大人とか関係ないですよね、学ぶという行動に対してのあるべきアプローチの仕方を考える良い機会になりました。
    本当にありがとうございます。

    記事然り、コメント然り、十人十色とはまさにこの事かと感じました。
    『そうだよね』も『なるほど』も『なんでそうなる?』も『それは違うと思う』も『目からウロコ!!』も見ることができました。

    記事を執筆頂いた谷口教授、コメント欄にそれぞれの思想を披露してくださった皆様、感謝します。
    おかげさまで、私も思考の幅が拡がった気がします。
    算数、数学に限らず、たいていの問題にはある程度の模範解答が用意されているものですが、その教育方法には模範解答は無いように感じています。

    ただ相手に正解を覚えさせたいのか、問題に取り組むことから知的好奇心を育てたいのか、はたまたその学問を好きになってもらいたいのか、目指すゴールがハッキリしていないうちは、教える側の柔軟さが発育や成長に多大な影響を及ぼしかねないことに気付けた気がします。

    K.H

      
  • 匿名 says:

    大人は頭が硬くなりがち。物事の見方は色々!一方からしか物事を考えられなくなるから争いも起こる。
    子供はとらわれていないから自分なりの考え方ができる。たとえ正解でなくてもそれを大人が認めることはとても大事だと思うし見習うべき。

      
  • 匿名 says:

    おしい
    考え方がとても良い
    ただ数字のルールに従うと、3+1=4だ

    と、素直に良い点を褒め、間違っている点を指摘したら良いのでは

      
  • 匿名 says:

    算数と直接的には、繋がらないかも知れませんが、私の小学生の頃の話を少し書きたいと、思います。
    私は現在40代の男性ですが、小学生の頃、自営業をしていた父親と一緒に、お客様の御自宅に訪問してある仕事の手伝いをしていました。(主に土曜日の午後と日曜日、夏休みなど) 父親と仕事をするのは楽しかったのですが、同時にミスをしてはいけないプレッシャーをいつも感じていました。その時に感じたのは、お客様の御自宅に伺う時間や、見積りの計算、踏切の通過時間など、様々な数と実戦での日々と学校での数の勉強の日々は、当時の私は全く別の数と思っていました。今思うのは、数は大事ですが、ミスをしても許される場合と、そうではない事が有ることを知れた事は、とてもいい体験をしたと、思っています。

      
  • 匿名 says:

    数学だけじゃなくて、あらゆる問題は解決するプロセスが大事。
    子供の頃からプロセスを大事にできる思考に特化できるのはその子供にとって最大の強みになると思う。
    途中まで正解に進んでればつまずきを取り除けば良いだけだからね。
    高校で答案用紙が真っ白で、問題が4問しか無い理系のテストがあって(1問25点配分)、どんなに分からなくても途中まで頑張って解いていれば、いきついた所に応じて点数をもらえたテストを思い出します。

    すごく長い式を書いて解くような問題じゃないから3+1は4じゃないとバツってみんなが言いたいのは分かるけど、じゃあ3+1が”5じゃないって証明する”式は皆さん教えられるんですかね。3歳の子に。

    私も3歳の子を育てているので、不思議な回答をしたときには「なるほど。」と言うようにしています。なんでそう思った?と聞くとすっごく面白い。子育ての醍醐味、子供の頭の中は宇宙!

      
  • 匿名 says:

    考え方としては理解できる。
    でも自分が子供のときはなんで間違いなのかを考えることで算数を覚えたので性格によるんじゃないかなぁ?
    子供が算数嫌いにならないようにするのは大事だけど。

      
  • 匿名 says:

    「子どもが考えた道筋を一緒に楽しむ」の原則に気づかされました。個人の尊厳とか人を理解するとか言われていることを具体的に実践するとこういうことになるんだ、と学ばされました。

      
  • 匿名 says:

    対象が3〜5歳なので考え方を重視した意見は好感。
    逆に、分数の割り算の方法だけを知っていて意味を答えられない様な、方法だけ丸暗記な方に良んで欲しい

      
  • 匿名 says:

    面白い。 ただし、数学なので白黒が誰にでも分かるが、文学その他文系の学問や、社会科学等の学問では、正解そのものが無い場合も多いので、回答がゼロと言う場合もある。 

    例えば、政治学の範疇で言えば、現在の先進諸国では民主主義が常識的ではあるが、過去には主権在民では無く、君主に主権がある場合が通常であった。 また現在では、「奴隷」が人権不在の存在である処から「違法」とされるのが常であるが、過去には、人権の無い存在である「奴隷」が認められていたのは事実であり、何も違法では無かった。

    それで質問そのものが適当か否か、と問われる場合もある。 「奴隷は人権無視か否か」との質問は不適当の場合がある、と言うこと。 質問自体を「現行の日本国憲法下で奴隷は合法か否か」等の質問にする必要がある、と言うこと。

    お子さんが理系か文系か、どの道に進まれるのかで教育も選択肢がある、と言うことなのだろう。

      
  • 匿名 says:

    かなり高度なことをやっている研究者だって、思わぬ勘違いはあります。しかしその勘違いが、大きな成長になるのもまた事実。要は、問題に対して興味を持ち続け、チャレンジし続けること。これに尽きると思います。子供も大人も関係ありません。

      
  • 匿名 says:

    失敗の研究は、大人だけでなく子供にとっても大切なのですね。
    その初めの一歩が、子供が間違えて計算した足し算の考え方を、お父さんが、その子に聞くこと。
    尋ねるのではなく、あくまでも聞くのです。
    そうすると子供は素直に、計算の手順を追想し、それを言葉にして、お父さんに話します。
    計算の過程を辿ることで、お子さんは、より深く算数を理解 ー 学んで行きます。

      
  • 匿名 says:

    美子ちゃんの財布
    10円が3個入っています
    一個だけ五円玉2個にしました
    ご褒美に10円玉1っこ貰いました。
    美子ちゃんは大事にお財布にしまいます。

    大人の会話
    3足す1だから四十円でしょ
    孫の話
    違うよ
    4個足す1個だから5だよ!

    たしかに美子ちゃんのお財布には5個入っていました。

      
  • 匿名 says:

    「考える力を育てる」、「頑張って回答を導き出した過程を評価する」などに配慮することは理解できます。でも、「3+1=5」では無いことをしっかりと教えて欲しいと思います。「誤りを受け入れて、認める。そして、なぜ間違えたか? 再考する。」。時間がかかり、面倒ではあるけれどこの課程をしっかりと踏んで欲しいです。「誤りを認め、再考する」については、子供より大人の方がなかなか出来ないように感じています。

      
  • 匿名 says:

    間違えた事や内容よりも丸をもらえた事が大切な経験になっていくのではないかと気付かされました。
    間違いを直させる事ばかりに躍起になっていて、本当に学んで欲しいことはなんだったんだろうと考えさせられました。

      
  • 匿名 says:

    数学においての想像界にいる年代でしょうから、丸でよいんじゃないでしょうか。
    いずれ現実界と出会い格闘し、象徴界へとみずから歩むための手助けとなるでしょう。

      
  • 匿名 says:

    言いたいことはわかりますが、△でいいでしょう。
    5で正解だと教わり、それを信じてしまうことを憂慮します。お嬢さんは嘘を教わっていますよね。

      
  • 匿名 says:

    算数、数学。何れにせよ思考の過程が重要です。谷口さんのお子様は考えた過程をしっかり示しています。算数、数学は解答を導く過程が何よりも重要です。大人になると結果を急ぐあまり過ちを犯す。試行錯誤しながら1つの事をしっかり考える子供たちには頭が上がりません。

      
  • 匿名 says:

    例えば、円周率は数学的にはπとか3.14…..と無限に続く少数で表現されるけど、算数の世界では最近は円周率=3となっている。もちろん数学的には円周率3というのは間違いなんだけど、小学生にπ等の数を扱った計算を理解させるのは難しいし、算数・数学嫌いになりかねない。数学的に間違いでもだいたいあってれば良しとする教育もあながち間違いとは言い切れないと思う。こどもの理解レベルに応じた教育は必要だと思う。

      
  • 匿名 says:

    昔息子が、小学1年生の頃、算数の答案用紙を見せてくれました。見ると、間違いにも花まるでした。子供に聞くと、みんな100点だよ、と喜んでいました。先生を呼んで理由を聞くと生徒がよろこんで学校が楽しくなる、とおっしゃっていました。そうじゃないだろと思いつつも、先生って大変な職業ですね、いろいろ話聞いているうちに、親の職業が、小学校の教頭先生でした。かんか教育委員会の裏側を見たような気がしました。

      
  • 匿名 says:

    教え方になるほど、と思いましたし、皆さんのコメントの賛否両論も参考になりました。
    学校で教える正解は教えてあげようと思ったし、子供がその答えに至った経緯や感性も大事にしたいと思いました。
    この否定しない方法で育っていけば、もしかしたらこの先新たな数式を見つけてくれるかも、なんて希望も持てますね。

      
  • 匿名 says:

    子供の年齢にもよりますが、正解のある答えを教えてあげないのはただの手抜きです。
    部分点にしてできたとこを褒め、正解に至るヒントを出してあげてください。
    手間はかかりますが、子供の考え方を聞いてからでも十分できます。

      
  • 匿名 says:

    アインシュタインも幼少の頃は九九が覚えられなかったそうですが偉大な発見をしました。興味を持つことが一番重要ですね。

      
  • 匿名 says:

    非常に勉強になりました。
    「足し算だから増えると考えたことは、足し算という新しい概念の獲得の過程として正しい方向に理解が進んでいると評価できる」という捉え方が、数学に限らず、子どもが世界を獲得していくとはどのようなことなのかを考える上で大切な視点なのではないかと感じました。
    また、「5は3より多い」「7や8ほど的外れではない」という数の捉え方を、子どもに教える場面で想起して更に評価に反映するということは、自分にはイメージすらできないことで、こちらも大変考えさせられました。私は、いわゆる教科としての数学と、生活の中で数を頭の中で操作する時のような感覚を別の物として捉えていたのだなと気付きました。
    子どもの年齢や発達段階に合う対応ができるようがんばろうと思いました。
    短い記事でしたが、とても参考になりました。ありがとうございました。

      
  • 匿名 says:

    3+1=5は⚪︎にすべきではないと論じる人って数学を暗記で覚えて来た人じゃないのかなー
    かく言う自分もそうだったから数学が高度になるほど不得意になった。
    歳をとった今再び数学と向き合うとこんなに面白い学問はないと感じてます
    やはり最初の考え方をどう伸ばして行くかは大切です。4歳児が正解出してこの子天才って思うのか、不正解でもその思考過程から将来伸びるなと思うかが問題だと感じました。
    間違い正解とされて将来困るとかは考え過ぎでしょう。

      
  • 匿名 says:

    この答えが、間違っていてもOKとなるには、数学者の冷静な分析と思考によるものだと感じた次第。
    世間一般の普通の大人が足し算を出来ないという事は有り得ないので、昔答えた「5」という回答に自分が間違えていた。という事に将来99%気が付く。他の計算問題や、難しい数学の問題は大人になってから気が付かない事もあるかもしれないが、この足し算に例外は無し。

    それよりも多感な時期の子供の過去に戻れないもので、子供の頃に〇として回答を貰えたら子供は算数的には間違えていても算数を取り組む意欲に繋がる。苦手意識とは潜在的に眠る失敗や嫌な思い出が重なり、更に自信を得られないまま、改善も出来ない事に陥ることであって、苦手意識に成ってしまった場合の、こちらのリカバリーは高度な知識の大人や心得が無いと救えないからタチが悪い。

    また、この「5」という答えの出し方の思考のまま、他の問題の解答では、これでは足し算で〇を貰えなくなるから(笑)何も大人になるまでに、いや下手をしたらその学年度の中で自分の間違いに気が付くことだろう。
    こうした現実的な事実へ向き合った時、数学的な正解を直接的ではなく間接的に気が付かせ、尚且つ、きっかけを与えるという数学者の行動は大いに価値があると感じます。足し算の間違いに、すぐに将来的に気が付く上に、何故正解としたのだろう?を考える事だろう。という担保の元、出来る回答なのでは?と思いました。

      
  • 匿名 says:

    親が賢いと余裕があるから色々な見方ができて素敵だと思いました。結局どこで間違えたかの思考がわかれることが大切ですよね。式が書けないうちは子供の思考を辿る事が大切ですね。

      
  • 匿名 says:

    恥ずかしながら、とても、とても身近な場面を改めて考えさせられました。
    ありがとうございます。

      
  • 匿名 says:

    今の子どもたちの教育に最も重要な要素を示してくれている。子どもたちの思考に寄り添う姿勢とその教育手法は、今の思考力を重視する教育の基本となるはず。教えるがわこそ、思考にもっと興味を持つべき、あるいは、子どもたちの思考力を育てることにやさしい心をもって対応するべきだ。端的に、でもピンポイントで、子どもたちの思考力向上教育の手法を披露してくれた。千葉県瀧塾 塾長 瀧澤大

      
  • 匿名 says:

    良いとこ△。
    ◯では相手の意見の100%肯定で、
    エラーが有るという点が伝わらない。

      
  • 匿名 says:

    これは最悪。今は良いが先に行って教育全体に対する不信に繋がりかねない。
    考えた道筋に沿って一人ひとりに寄り添ったアドバイスを出すというコンセプトは素晴らしい。
    だが、間違いは間違い。次に○をもらうために一緒にたどった道筋を考えて補足するなら良いが、説明も指導もしていないって…そりゃ子供に嘘を教えただけだよ。
    バツ!とやって傷つけたくないと言うなら?なんで?にして一緒に考えるってやり方でも良い。
    ○は無い。この部分、しっかり復習しなきゃならんのに。○を貰った箇所を頑張って復習しますか?
    一見美談に見せていますが、問題の解決を先送りにして詰ませただけに見えます。

      
  • 匿名 says:

    「〇と×」
    先ず、評価のシステムが問題ですね
    例えば、〇x0.7 とか、 〇x1.5 と言う評価が合って良いハズです。
    何故ならば、「思考する力」を育てる事が目的と考えれば、導き方にこそ意味があるわけです。
    ここに「評価」を与えるべきですね。
    従って、この先生の考え方に対して強く支持致します。

      
  • 匿名 says:

    一方的に正解の3+1=4だけしか教えないのは違うと思いますし、間違えた過程を聞いてどこは合っていてどこが違うかを分析して子どもと確認し合うことはとても大事だと思いますが、だからといって『250mm=70cm』がまる(正解)かと言われると現実的には違うので、慎重にその過程の確認作業をしっかりできれば良いですが、お子さんが変に勘違いしてしまい「先生はまるだって言ったもん」と言う部分だけが残った場合、後々算数以外にも波及して崩してはいけない部分の社会のルールがむちゃくちゃになることにも繋がりかねないのでは?という危惧も浮かびました。
    過程を大事に..というお考えは素晴らしいと共感するので、正解としてのまるではなく[?]がいいのではないかと個人的には思いました。

      
  • 匿名 says:

    算数の計算 過程がある程度間違えて無ければ

    ⭕️とは
    小さな子供が 算数好きに
    成る過程   潰さない考え
    素晴らし

      
  • 匿名 says:

    こんな考え方があったのかと驚いた
    ただ一部のほかの方も言っているようにこれは「理想」であり実際は現場の負担が増えたり過大評価されてしまったりするなどで実行するのは不可能に近いと思う。

      
  • 匿名 says:

    自由な発想、過程を大切に、よく分ります。しかし算数は最終的には答えはひとつです。決して計算の作業だけを覚えろとはいいません。もちろんなぜそうなるのかは一番大切なポイントです。しかし発想や考え方を問う教科ではないと思います。私はゆとり教育は反対です。特に小さい時ほど繰り返し何度も訓練して、基礎と身につけるべきことは多い。この土台があってこその発想力だと思います。

      
  • 匿名 says:

    大事なことは子供が自ら考えること、算数が好きになること、それを親は教えるのではなく、褒めながら見守るのだと感じました。私も同感だと思いますし、子供にもそのように接しています。大学の先生がそのように実践される事実を知り、親として私もまた、自信がつきました。

      
  • 匿名 says:

    確かに、正確に計算する能力は大切ですが算数はそれだけを教える学問ではなく、考え方を学ぶ学問であると私は思っています。
    私自身、小学生の時に素晴らしい算数の先生に出会うことができました。今思うと、あの先生のおかげで世界の見方が変わり、視野が広がりました。
    九九を覚えるのも遅くて劣等生だった私が、勉強を好きになれたのはその先生のおかげです。
    谷口さんのような方にこそ小学校の算数を教えて欲しいですね〜

      
  • 匿名 says:

    「3+1=5」や「250mm=70cm」の結果にばかり注目してしまいますが,それに至るプロセスの中には正しい考え方が含まれている,という非常に大切な視座に気づかされました。結果だけで評価しては,評価された側(子供たち)は「プロセスも含め全部間違いだったのかな…」という負の過剰認識に陥りかねず,かえって円滑な学習から遠ざけかねないと感じました。子供たちの考えに耳を傾けることの大切さは算数や理数概念の円滑な理解だけでなく「自分の考えを表現する」というトレーニングにもなりますね。それが将来の算数,理数学習の円滑な理解,深い理解への素地になるという良循環につながるとも感じました。

      
  • 匿名 says:

    3+1=5に対して、「3より大きいから○!」と言える勇気に驚きました。答えの正誤よりも考える過程、という大局的な指導方法に初めて触れました。育児全般に通ずる考え方を算数教育にも適用して良いのですね!

      
  • 匿名 says:

    なるほど。頭ごなしに間違いを指摘すれば子供も萎縮します。「どうして分からないの❗️」「なぜ分からないの❗️」と強く問い詰めるのは、ただの大人の短気ですね。ゆったりと子供の気持ち、考えを聞き、同じ目線で一緒に成長したいものです。

      
  • 匿名 says:

    ステキな内容ですね。
    これは私個人の感想ですが、大人でも、一生懸命自分なりに考えて、持っている物を最大限出した回答や提案内容に対して上司や先輩に「これじゃないんだよな〜」と即、却下されてしまうとモチベも下がるしそれまでに頑張った事も全て認めて貰えなかったと思い込んでしまいます。
    社会ではそんな考え方じゃ甘いとお叱りを受けてしまうかも知れませんし、理想の回答にもっと近づく為の努力が不十分だったのは分かるんですが、誰だって知識や経験はその日1日でついてくる物ではないですよね。
    その人なりに考えたプロセスを大切にして耳を傾けてくれるなんて最高です。
    回答を知っている相手の対応次第で、可能性は無限大‼︎って事だとなと思いました。
    忘れかけていた純粋な気持ちを思い出させてくださる内容でした。教授の様な寛大な心を持てるよう、ゆとりを持った大人でありたいと思います。ありがとうございました。

      
  • 匿名 says:

    間違ったまま育ち、脳が偏る恐れがあると思います。それより本を読ませる方がいいのでは?

      
  • 匿名 says:

    コメントがおもしろかった。
    コメント欄を全部読みました。

      
  • 匿名 says:

    「間違えにも理由がある。」
    目から鱗でした❗️
    子どもの間違えの答えには「これはね、こうして、こうして、こう考えるの❗️」とこちらの正解の考え方を押し付けていました。
    間違えの答えになった考え方は間違え。と思っていましたが、細かく聞けば、子どもなりの考えがあったのかもしれないと反省しました。
    次から、そう考えた理由を聞いてみたいと思います^_^
    どんな答えが返ってくるか楽しみです❗️

      
  • 匿名 says:

    さきほど、3,4,5すべて正解と書いたものですが、切上げでいけば6も正解ですね。
    記事の通り、「3以上で6,7といったまとはずれではない」でしたね。
    私も3+1=4だけが○というのではなく、答えに至る考え方が重要だと思います。

      
  • 匿名 says:

    3と1が整数だという説明があるわけでもなく、条件によっては3,4,5すべて正解ですよね。 だけど子供が5と回答したプロセスを聞いてみることで得る気づきは大切ですね。

      
  • 匿名 says:

    子どもをつまづかせたくないという優しい思いが伝わって来ました.また,ちょっとしたことが原因で算数嫌いになったり,その後の向学心が失われたりするかもしれないと教えられました.3~4歳なんて,まだ実際の数と文字としての数字との対応付けも曖昧なところもある年齢だと思います.頭の中では正しい数を思い浮かべていたかもしれないし,数字がちゃんと書けただけでも褒めてあげないと,と思わされました.

      
  • 匿名 says:

    面白い発想です。脳が活性化されました!

      
  • 匿名 says:

    小5か小6の頃の社会科の時間。「戦後、冷蔵庫や洗濯機が普及したのはなぜ?」という先生の質問が出た。ふだんはあまり手を挙げて答える子供ではなかったが、私は思い切って言ってみた。「戦争に負けたから」と。でも、それは間違いらしかった。そのあと、クラスの秀才と言われる男子が口をとがらして「便利だから」と答えた。先生は「そう」と。私は、へ~?と思った。ま、たしかにそうなんだけど。。。。それから、ますます挙手をしない子供になっていった私。半世紀以上前のことだが、鮮やかにその時間と空気を記憶している。子どもの記憶とは恐ろしいものだ。

      
  • 匿名 says:

    子どもだけじゃなくて大人にもこんなふうにつきあう人が増えたらなあ

      
  • 匿名 says:

    素晴らしい。たったひとつの正解がでないと×はおかしい。結論に至るまで子供なりにあるいは大人でも一生懸命何かを考えているわけだ。何でもいい。その途中の考えに、見方を変えれば素晴らしい思考や新しい発見があるかもしれない。あるはず。無くてもいい。否定する必要はないと思われる。私も数学や物理、科学など考えること。学ぶことをまたやってみたくなった。素晴らしい先生です。

      
  • 匿名 says:

    子供へのあたたかい眼差しを感じました。正しく教えなくてはと気負う反面、考え方はあってるのにバツをつけるのがなんとなく可愛そうでした。
    せっかくムチムチの短い指を使って考えた足し算がまちがっていて、マルをつけてあげたかったです。
    すてきな事を教えてくれてありがとうございます。

      
  • 匿名 says:

    将来苦労しないのは全て教科書通りに出来る記憶力の良い子なんだけどね・・・

      
  • 匿名 says:

    正に今、小2の娘の誤答が、なんで??とゆう回答だったりして、どう教えたら良いのか迷子になってました。とても参考になる記事でした。

      
  • 匿名 says:

    この、“プロセスを大事にする”という箇所には、賛成します。
    しかし、高校の頃は数学が苦手でしたが、中年になり“数学とは答えが1つ。故に美しい。”と思うようになりました。この私の意見に、どう答えてくださいますか?教えてください。

      
  • 匿名 says:

    感動します

      
  • 匿名 says:

    コメントが興味深い。この記事に反発する人というのは社会秩序や「正しさ」からはみ出すことに恐怖を感じる人たちなのでしょう。
    そういう人たちに聞いてみたい。
    3+1=5
    がなぜ間違いなのか
    3+1=4
    がなぜ正しいのか
    ほとんどの人は説明できず、ただそう決まっているからとだけ答えるのではないかと思います。

      
  • 匿名 says:

    ちゃんと教えましょうよという方は、3〜4歳児という前提でそう言っているのでしょうか。大学入試でも数学の専門家から見たら稚拙な間違いがあったとしても部分点があったりするのでは。ウチの子が言葉を覚え始めた時、ヘリコプタをヘビクロレターと言っていましたがちゃんと教えないと大人になってもヘビクロレターと言い続けることはないとそのままにしましたが間違いでしょーもないことでしたかね。何もないところから数という抽象的な概念を習得する様を見るのは感動しますよ。

      
  • 匿名 says:

    心底感心しました。数学者って堅いイメージでしたが、こんなに温かくやわらかく子どもを見守れる人って、保育者や低学年担任教師だって滅多にお目にかかれない…と言うより、カリキュラムや雑用が多くなっているという昨今の学校では到底無理で、皆無かもしれませんね。せめて家庭ではこんな風に余裕をもった指導を参考にして欲しいと思いました。もしかしてひ孫がいてもおかしくない歳の高齢者ですが、こういう余裕はなかったな…と振り返りながら、子育てをもっと楽しめば良かったと感じています。今の世はコロナや経済問題他が一度に押し寄せて、心がヒリヒリしていますが、ひととき慈雨を浴びたような心地になりました。

      
  • 匿名 says:

    文章と違い読み解く問題では無いので計算は正しく理解できるように教えましょうよ。極論で言ったら1万+3万=5万っていうのもこの親は正解と教えるのか?良くない教育だよ。

      
  • 匿名 says:

    間違ったことを頭ごなしに否定しないというのが大事なことですね。
    間違ったことを「教えてやる」「矯正してやる」と強くやってしまうと、自分がなぜその答えにたどり着いたのかを正直に話してくれなくなってしまうように思います。
    そうすると長い目で見たときに正しい導きができなくなり、子供にとって不幸なことが起きてしまいますね。ただ、そのためには教える側に余裕が必要だと思います。

      
  • 匿名 says:

    私が、父親だったら、250を200と50に分けた発想と、単位をmmからcmにした発想を褒める。70cmと言う答えに対しては、途中迄あっていて、考え方は、素晴らしいので、惜しいと言って上げる。そして、50mmに関してはどうなのかとヒントを出して、後は本人に考えさせる。

      
  • 匿名 says:

    ここからここまでなら正解とする、という新しい発想を見た気がします。
    正解の幅を広く取る。世の中、正解・不正解の二択とは限らないこともありますね。
    子供の可能性を伸ばす、素晴らしい教育方法だと思いました。

      
  • 匿名 says:

    いやキチンと教えましょうよ!

      
  • 匿名 says:

    自分は算数が小学生の時から大の苦手でした。こうして教えてもらったりしたらキライにならなかったかも(>_<)!
    学校現場で取り入れてほしい。大人数だと無理なのかなぁ。答えの正解不正解だけじゃなくて、子供自身が気づいて自ら好奇心持って取り組んでいける形になったら一番だと思う。

      
  • 匿名 says:

    温かみを感じる記事です。
    4歳の子の成長に合わせて応えるところに感動しました!

      
  • 匿名 says:

    私も高校1年生の時に、初めての物理の試験で(年配の先生だった)、答えがわからなかった問題に対していろいろ推論して答案を書いたところ、すべてマルにしてくださって驚いたことがありました。それから物理が大好きになり、2年生の時は気が付いたら成績が一番になっていました。いまでもあの時のことは深く記憶に残っています。

      
  • 匿名 says:

    これは誇大表示の記事。算数が苦手な子に辛抱強くどう教えるか?には役立つだろうが、数学教育全般に当てはまるとは思えない。これでは3+1=4と即座に答えた子は「思考力がない」ことになってしまう。教員がこんな形で5や6と答えた子まで〇を付けていては大混乱になる。

      
  • 匿名 says:

    数学に限らず理系分野は「現在ではA→Bである」と前提を踏まえてから次に進めていると思う。そうせずに「A=Bかな、A→Cかな?」で止まってしまう。
    ヘタすると、”1,2,の次は何故3なのか?”で止まってしまわないか?
    また、”子供が何故この解を導き出したか?”の答えが”なんとなく”だったらどうする?

    しかし、子供一人ひとりに考え方・捉え方・感じ方があるので、そこを意識して教え進めていくのはいいかも、と感じた。大人の捉え方としてはアリだと思う。まして、出来ないからってアタマ叩いたりこづいたりするのは最低(昔そうゆう目に遭った)。

    理系に限らず「何故その解にたどり着いたか」「そのプロセスを口に出して説明する」のは、とても大切なことだ。以前に流行った”ロジカルシンキング”へとつながる。
    そして理知で問題を解決し、将来に繋げられるのはホモサピエンスだけなのだから。

      
  • 匿名 says:

    今、5歳の軽度知的障害の1人息子がいます。息子になんで?とつい聞いてしまっていた自分が恥ずかしくなりました。

      
  • 匿名 says:

    ああ、30年早くこの記事を読めていれば…
    息子は算数嫌いにはならなかっただろう。悔やまれる。
    せめて孫が生まれたら、こんな対応できるように勉強しておこう❗

      
  • 匿名 says:

    希に子供は天才的な柔軟制のある発想力を産み出して答えを導き出している事があります。ほんの少し間違ってるだけで否定すると子供はその考え方すら萎縮してしまい新しい発想をする事を止めてしまう危険性も少なからず含んでると改めて思いました。

      
  • 匿名 says:

    面白い。柔らかいあたま。考え方が無限

      
  • 匿名 says:

    「考える力」も評価しよう、という採点。いい話だ。この視点が欠落している日本人がどれだけ自分たちの問題を解決できていないか目に見えているだろう。こうした好例が増えて、大人たちが学べなかった思考力の教育を子供にしていってもらいたいと思う。学校常識で凝り固まった大人たちをどうにかかいくぐって、学者主導で進めてほしいな。

      
  • 匿名 says:

    研究の世界では通用する話だが、現実の世界で生きていくには不十分。この程度の数字なら子供の生活場面にたくさん出てくるので、思考を尊重しつつも正解はすぐその時に理解させる必要がある。3+1=5後から修正するの大変よ。いずれはちゃんと覚えるとは言っても最初のきっかけで次々勘違いの積み重ねになる。

      
  • 匿名 says:

    お話の内容は素晴らしいものです。私は小学校高学年で子供時代のエジソンだったか3+1=1、全ての計算は1だと主張した話を聞かせてもらった記憶があります。話の中の先生が理由を聞いたところ[粘土のようなイメージでみんな足してしまえば大きな固まりの1となってしまう]と答えたという話でした。子供は成長するものです。少しずつ問題の仕組みを知っていけば良いのかもしれません。

      
  • 匿名 says:

    素晴らしいです!
    私も子供の宿題を一緒にしますが、間違えても、どして?こーなった?て言う方なんですが、やはり間違えた事をやり直しさせてしまいます。
    誤答とは?て考えさせられました。

      
  • 匿名 says:

    答の正誤より、それを導き出した考え方を聞くことは、順序としても必要なことだと思います。
    考えることの大切さ、楽しさを身に付けることで、勉強は勿論のこと生きていくための力になると考えます。

      
  • 匿名 says:

    そばに居る大人の心と時間の余裕が大切なのでしょうね。算数だけに当てはまる事例
    でもないですね。
    社会全体が相手に対してこんな余裕でむきあえたら、すてきですね。

      
  • 匿名 says:

    賛否両論あるやつだ。自分ははあ?としか思わなかった。そんなんなら学ぶ必要ない。一生懸命考えたから、考え方はあってたから……それで丸ならみんな丸。しょーもない

      
  • 匿名 says:

    正解はすべて満点、ミスしたら問答無用で0点というのは、教育的見地というよりも採点側の省力化のためでしかない。ミスにもそのミスの度合いに応じた配点があれば、生徒は標高ゼロからでなく山腹から頂上まで登ることができて、生徒の省力化になるだろう、といったところか。何度も標高ゼロに叩き落されてもめげずに登頂を目指せるマゾヒスティックな生徒だけが数学好きになるという教え方は、本来の数学の魅力とは関係がない無駄な嫌がらせだとは思う。

      
  • 匿名 says:

    どこを間違って正解にたどりつかなかったかをヒントを与えて本人が「あっ そうか」と気がついてくれればよい。ほかの類似問題でも気をつけていくことが身につけばよいと思います。
    「正解」にたどりつく方法は算数では複数ありそうで面白いと思います。

      
  • 匿名 says:

    このタイトルは紛らわしい。「1+3=約5」を正解にしたということでしょ?
    あえて人を驚かすようなタイトルをつけて、注目を集めようとする姿勢には教育以外の目的を感じます。

      
  • 匿名 says:

    何十人もいる学校のクラスで一人一人教えるのは現実的にキャパオーバーだから、まずこれは子を持つ親世代に読んでほしい。知ってほしい。家での復習時に親子で見直してフィードバックする時間が大切だと感じた。

      
  • 匿名 says:

    当時3〜4歳の子供 ということで、こういう教え方も面白いですね。
    「3+1=5」と、文章で記憶するわけではないと思うので。

      
  • 匿名 says:

    それじゃあ、全部が正解になっちゃうじゃん。そしたら、何のためにこの問題を出したのか?
    考える過程を大事にすることに異論は無いが、間違いを「間違い」と教えるのも大切なことだ。

      
  • 匿名 says:

    物事には、必ずどうしてそのようになるのかという結果が付いてくる。いわゆる正しく認識して正しく評価することが物事を考えていくのが、正しいやり方でしょう。いきなり認識もせずに評価する事の何と多いことか?

      
  • 匿名 says:

    私は小学校1年の時に、算数のテストで0点をとったことがあります。
    計算問題が10問。つぎのこたえをかきなさい。というようなことが書いてあったと思います。
    1+1=3(2のつぎだから)
    3+2=6(5のつぎだから)
    ・・・というわけで、0点でした。
    自分ではどこが間違ってるの?って思いましたが、先生に聞く勇気はなかったです。

      
  • 匿名 says:

    凄く為になりました。私は昔算数が不得意だと思っていたからです。親からも先生からも耳にする言葉は何でそうなるんだ。と間違えた答えに苛立たれました。が、大人になり仕事をする上で自分はどう考えても文系ではなく理数系なんです、あんなに算数が出来なかったのに、なんで?と思っていました。そのうちにテストの点数は取れなかったけど答えを導くのによく考えていた事を思い出し、勝手に不得意だと思い込んでいたのではと。谷口さんの本是非読んで、子ども達の自己肯定感と共に考える力を伸ばしていきたいと思います。特に子どもに携わる先生といわれる方々には読んで欲しいですね。

      
  • 匿名 says:

    これは読みたい。誤りの方が多彩だからなぁ。

      
  • 匿名 says:

    数ヶ月前中学受験を終えた息子がいます。受験自体はもともと行きたいと言っていた中学校には合格がもらえず、本人もがっかりしていましたが合格をもらえた中学校で中学生生活を満喫中です。小学生時代は算数の成績はいたって普通、受験をするには少し厳しいというレベルでした。模試でもなかなかふるわず、最後の半年は受験でよく出される問題集を親子で取り組みました。

    記事にあるように、数字を分解する、数字の性格を考えてみる、規則性を見つけてみるなど、公式を使わなくても創意工夫で何とかなる問題が多いことを知りました。親子で、こういうのアリじゃない?と会話しながら、数字を考えること数ヶ月。親は仕事が終わってからなのでヘトヘトで大変ですが、意外と子どもはそういう時間を楽しんでいたようです。受験が終わってからの方が、算数・数学が面白くなってきたそうです。受験前の時の算数の勉強楽しかった、と本人も話しています。

      
  • 匿名 says:

    全くです。でも実践はなかなか難しいです。意識的に訓練して、我が身を変えることが先のことで重要のようです。

      
  • 匿名 says:

    大人でも間違えたことを後になって解った経験を多く持つことが進歩、

      
  • 匿名 says:

    細かいことで子供が算数が嫌いにならないことを!算数は面白いことがいっぱいあると思うから、

      
  • 匿名 says:

    小学校の1年2年はそれで良いと思う。

      
  • 匿名 says:

    実は3+1は四捨五入されていて表示は整数でされていたとする。
     → 3.3 + 1.3 = 4.6 これを四捨五入すると 5 になる、
    という可能性も考えて子供が回答していたら、将来が楽しみ!

      
  • 匿名 says:

    面白い

      
  • 匿名 says:

    素晴らしい!ここまで丁寧に向き合える様になれるといいな。

      
  • 匿名 says:

    こんなふうに算数を教えられたら生涯苦手意識を持たなかった…かもしれないな。
    普通は間違えたら怒られる、バカにされる、果ては呆れられて放置とかだしな。

      
  • 匿名 says:

    子供の考えをちゃんと聞いてあげることは、大事なこと。でも、なんでもかんでも間違っていることを○にするのは・・・どうだろう?

      
  • 匿名 says:

    うちの子が5才の時1+1=3といったのでおかしいと思って聞いたら小さい林檎と大きい林檎を足したので3になったと言った。きっと天才になると確信していたら、小学校に上がったら1+1=2と普通の子になって仕舞った。谷口先生の話を聞いて安心しました。

      
  • 匿名 says:

    凄く良いと思います。今は1、2年生は点数化されません。でも成績表では良いか悪いかが分かりますね。それで悪いとショックを受けます。点数化しない意味が無いですね。
    成績表での良い悪いは全部先生個人の評価だから、多少なりとも偏見が入っています。
    いっそのこと成績表もなくして、大学は将来自分がなりたい学科を選択して希望して入れるようにすれば良いのにと思います。
    そうすれば、医師不足も解消出来ますし、医師が凄い人、偉い人という思考もなくなると思います。

      
  • 匿名 says:

    親の私が小学校の低学年の頃、授業に九九が現れてから数字と言うもの全てが大嫌いになりました。今もそうです。当時の低学年の頃の担任が数字にとても厳しかった記憶があり、九九が出来ないと下校させられなかった。嫌だったのは、下校後、担任は、職員室へ行ってる間も、私1人、電気を消された暗い教室へ居残りされて、九九が出来るまで帰してもらえなかった。数字を見たり聞いたりすると、脳がすぐに拒否反応を起こし、強い睡魔が襲う。これを自分の子供に体験して欲しくなくて、間違えたら違う事を私は教えてた…。もちろん、数字を楽しみながら接してました。しかし、考えてみたら、子供なりに考えて答えを出した結果ですもんね、丸がいいに決まってる!せっかくの答えを否定して、数字が苦手になるのも悲しいし、丸付けで親にバッテンされた事を考えると、子供にしては、『答えを書いたらまた、親にバッテン付けられるから、もう計算したくない…やり直し嫌だ…』などと、モチベーションが下がって、数字嫌いになるのでは…。だったら、間違いでも、丸付けする時、丸を付けようと決めた!そうすると、担任からバッテンを頂いてました(笑)
    ありがとうございます!

      
  • 匿名 says:

    目から鱗です。自分で考えることの大切さを教えてくれる。
    ただ現場の先生方はどうなんだろう。
    30人もいる子供に対応できるのかな。

      
  • 匿名 says:

    民間で統計を生業としているものです。私も○とする考え方に賛同です。世の中のあらゆる事象は確率的で、仮に1と3を平均とする分布同士を足した分布から5に近い値が得られることが実際にあります。自分も小学生の子がいてどうしたら好奇心を引き出せるか試行錯誤しているので深く考えさせられました。新しい視点をありがとうございます。

      
  • 匿名 says:

    正解ではないので×でいい。逆に○やら△にしちゃダメ。子どもでも3-4歳の年頃の子に正解を求めなくてもいいし、大いにペケでいいし、ペケだからダメって事でもないし、間違ったから怒るような話でもない。逆に、一杯間違って間違って、そのたびにああ間違ったね、何処間違ったんだろ?って問いかけて、また学んでいけばいいだけだと思う。

      
  • 匿名 says:

    昔から△って文化が有るのにあえて○にする
    数学者的に駄目だと思う。

      
  • 匿名 says:

    素晴らしい考え方です。
    受験がなければ。
    受験という制限時間が決められた中で子供の評価を決める現在の日本でこのような教え方をしても「成績」というもので結局否定されることになり将来的な学習意欲の向上は望めません。
    まるで現在の教え方が間違っているかのような記事でしたが、間違っているのは教え方ではなく受験という社会のシステムの方なのではないでしょうか。
    先生方や教育に携わる方々はそのシステムに合わせて教えなくてはならないから間違った答えをバツとするのです。
    もし受験に制限時間がなく、何歳でも自分の納得がいく学習レベルになったときに受けることができるシステムだったり、成績を他人と比べず過去の本人と比べる成長記録のようなものに変わることがあれば自ずとこういった教え方が広まっていくことでしょう。

    子供の可能性を伸ばすといえば聞こえはいいですがこのような教え方をされた子供は成績で評価されず、受験に間に合わず、社会からはじかれてしまいます。
    そのとき一番被害を被るのは子供です。
    大人の自己満足に突き合わせて子供の未来を潰してしまっては本末転倒です。

    まずは日本の受験というシステムが変わってからこのような教え方が広まっていくべきです。

      
  • 匿名 says:

    この記事の感想として「誤答を正答にするのはやりすぎだ!」と思う方の気持ちもわかるけど、それは継続して子供を教える覚悟があるかどうかで分かれるのかな、と思います。たとえば一回だけしか教えないならそこで誤答を教えるのは確かにまずいだろうし、継続して教えたり接し続けるなら、「うん!だいぶ良くなってきた!」という教え方はとても大切だな、と。とすると、やっぱり子供と接する機会を増やしながらも正解をだしてもらうことを急がないということが大切なのだな、と改めて思いました。

      
  • 匿名 says:

    3+1=5とした子供の考え方が記載されていないから、はたしてそれで正答として良いのかどうか読者は判断のしようがない。
    読者に判断させず、数学者のオレが正しいと判断したんだから正しいのだという傲慢さと権威主義が伺える。
    今回は指を使わず計算したからというのが評価できる点らしいのだが、暗算であれ筆算であれ指算であれ、正しく答えが出ればこれらの計算に身分の上下のようなものはないはずなのだが、子供にもできる指を使った計算を卑しい身分と見做す権威主義のようなものを感じる。
    別に権威主義者で悪いと言っているわけではない。ただ権威主義者なら権威主義者らしく物分かりの良い振り・リベラル仕草などせずに3+1=5は間違いと率直に言ってあげた方が子供の混乱しないだろうに。

      
  • 匿名 says:

    200と50に分けるその数学的?なセンスの良さを大事にして欲しいですね!全ての失敗は成功の素!失敗から学ぶことが大事

      
  • 匿名 says:

    とてもいい話だけど、俺なら〇じゃなくて△だな
    △にすれば、子供はなんで△なんだろうって考えるからね

    俺いいこと言っただろ?

      
  • 匿名 says:

    考え方を褒める事と、誤答を正答とするのは論点が違うと思うな

      
  • 匿名 says:

    考えている工程や努力を評価したもの。検算させることで子供が自分で気付く仕組みづくりが大切。ざっくり計算する能力は大人になると大切。立方体の体積は立方体に内接する球の体積の、ざっくり2倍とか。

      
  • 匿名 says:

    確かに3~4歳くらいだったら「誤答を正解にされたこと」なんて憶えてないもんな

      
  • 匿名 says:

    算数だけの話・問題だけではない!と思いました。
    子どもの考えを最後まで聴くこと。そこに、ジャッジではなく、「こういうことかな?」と、子ども自身が発している言葉から子どもの思考や想いをわかろうとしているスタンスが、自分の考えを持ち、様々な感情を親だったり周りの人に伝えることができる子育てに繋がるなあ、と思いました。

      
  • 匿名 says:

    なるほどね。こういう話を知っていると,自分の子どもに対するときの余裕になるように思います。
    他の話を知りたいから本屋で眺めて,もっとなるほど印がつけられそうなら買おうかな。

    3+1=5を○にすることの是非は,そこだけを切り取ってもしょうがないんじゃないかな。最初の一歩を評価し,次も子どもを見ていくぞという話の中で,是だと思います。その意味で,3+1=5を○にすることは,すごく覚悟のいることでもありますね。

      
  • 匿名 says:

    ヒントになる

      
  • 匿名 says:

    数学的感覚って話ならだいたいの当たりをつける勘を養うのが最終目標だけど、だからといって正解だと言ってはいけないでしょう。7や8が見当違いなら6はどうなんだってややこしい話になるし間違いだと言いたくないなら「そうだね。3より少し大きいよね。」ぐらいでとどめておこうや。

      
  • 匿名 says:

    とても大切なことを知った気がします。

    私には3人の子どもがおり、長男はすでに中2ですが、子どもの気持ちに寄り添うことや根気よく聴く大人の姿勢も大事ですね。
    本屋さんへ探しにいきます。

      
  • 匿名 says:

    褒めて伸ばすってやつか〜

      
  • 匿名 says:

    数学は解き方が重要な教科だと考えています。最終的な解に対してどのような道筋で解いたかを説明できればどこで間違えたのかを確認できるし、次は気を付けられる。一緒くたに☓は教える人にとって一番ダメ。

      
  • 匿名 says:

    考え方を共有したり、出来たところまでを褒めることはとても大切。
    でも3+1=5という明らかな間違いを〇とするのはちょっと違う気がします。250mm=70cmの間違いの例のように、思考過程を聞いて、できたところまでを褒め、間違いに気づくようなヒントをあげるのが良いと思います。

      
  • 匿名 says:

    200と50に分けるって、センスがあると思います。

      
  • 匿名 says:

    子ども、ひとと向き合う時に大切な姿勢がそのまま教え方にも表れている。相手の話をよく聞く。それから始まるんだなと。

      
  • 匿名 says:

    こういう指導、教育を受けたのは、国語と理科くらいでした。国語は○をくれましたが、理科は✕でしたが。

      
  • 匿名 says:

    小学生の子どもがいます。「いずれ足し算はできるようになる。」親は分かっているはずなのに、学校の勉強に遅れないようにと焦ってしまいます。「指を使わずに足すという新たな一歩を大切にしたかった」というエピソードを読み、我が家も答えを急がずちょっと立ち止まって子どもに向き合いたいと思いました。ありがとうございます。

      
  • 匿名 says:

    親も子も忙しくて、早く早くと焦るように勉強してしまいがちな今、大事な視点だと思いました。どんなふうに考えたの?と聞くと、こどもは一生懸命こうなって、こうなって、こうなんだよ!と得意げに説明してくれます。大人がコレが正解だと言ってしまうと、こどもは考えずに正解を教えてもらえるのを待ってしまう。一緒に考えたり、こどもが自分の考えを言語化する手助けができたらなと思います。

      
  • 匿名 says:

    今、孫の算数の間違いの指摘しないで、どうしたらその答えになるの?と質問していることでよかったのですね。ホッとしました。

      
  • 匿名 says:

    とても感動しました!!!
    目の前のことを0か1か(正解か不正解か)で判断せず、長い目で見て子どもの成長を信じている姿勢がとても素敵だなと感じられました。
    この記事を読んで、正解を教えること=正解 という思い込みが自分の中にもあったのかもしれないと考えさせられました。
    何が子どもにとって良いのか、このような思慮深い教育はAIには難しいのではと感じました。
    ありがとうございました。
    (22歳)

      
  • 匿名 says:

    よく理解できる。
    学生の頃、周囲が「いいから答え覚えようぜ」という風潮で、解き方や公式の導出に変に拘っていた自分は浮いていた。
    間違いを正し、正解を押し付け続けていると、「正されるのだから正しさを知っていれば良い」とショートカットを探すのは自然な流れ。
    ここでは幼い子に教えることを話題としていますが、育っても同じ。これが正しいと教えることは有意義だが、なぜ正しいかをくどくど説明する人は少ない

      
  • 匿名 says:

    とてもほっこりするやり取りですね(*^_^*)
    つい昨夜、寝る前に我が家の息子が「7+3=9」と書いていたのでどうやったのか確認した時のことを思いました。
    息子は指を7と3にして数え出し、7の指を「1、2、…7」と数え終えた後に「7、8、9」と数えていたんです。
    何度確認させても同じだったのですが、最後は「9だよ」と泣き出してしまいました。
    寝て起きて翌朝もう一度確認したら「10だね」とあっさり答えていましたが。
    もっと長い目で見てやればよかったなぁと反省でした。そして睡眠は大事ですね。

      
  • 匿名 says:

    まだ2さいの息子の母です。先の話ですが参考にします。私ならすぐに違うねと言っちゃいそう。どうやってその答えになったか聞いてみるようにします。

      
  • 匿名 says:

    とても素敵な考え方ですね。私自身算数で躓きそのまま克服せず得意な文系で学生生活終えた身です。中間点等くれる教師も居ましたが導き方の訂正までは中々気付いてもらえず、自分でも「途中までは出来ている」より「答えにたどり着けないから苦手で無理」と決めてしまっていたのだなと思い至ります。
    試行錯誤で正解に至った時もあくまでその時の試行錯誤の結果だから、同じ様な計算式の問題は解けなくて「こっちは解けるのにどうしてこっちは解けないの?」は子供心に「まぐれだし」の本心飲み込み、どう説明して良いかわからなくて曖昧にしてたな等思い返しました。
    ここまでは解ってるの助言と自分で理解する力有ればもう少しヤル氣出せたかなと。
    大人になって勉強した時に自分が理解してない部分を理解してるから解決して楽しく学べる事に氣付きましたが、子供時代にそのサポートがあれば違ったのかもとこちらの記事で思い至りました。

      
  • 匿名 says:

    とても、勉強になりました‼️それぞれの、考え方があるものですね、大人も、広い心で、見守りたいものです。🥰

      
  • 匿名 says:

    日本の学校教育最大の欠陥は、思考力を疎かにしている事です。
    これは算数の例ですが、すべての科目に思考を重視する視点が必要で、理科における自然科学の授業しかり、歴史教育にも思考力の併用が不可欠です。
    学校現場において、答えの出ない問題を討論させるのも重要かと考えます。

      

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