歌手 芹洋子さん 事故で生死の境をさまよったときも、歌と家族の存在が心の支えに
歌うことが好き 母の影響
物心ついたときから、歌を歌うことが好きでした。学校の音楽教師だった母の影響が大きいですね。いつも音楽を聴かせてくれて、私にも同じ道に進んでほしかったようです。でも、私は学校の枠の中に収まるのは嫌でした。
小学生になると、合唱コンクールに出て入賞。民放テレビの歌番組でも歌を披露しました。当初は歌手を目指すことに反対していた父も、入賞して賞金をもらうと喜んで、応援してくれるようになりました。
いろんなレコード会社からお誘いをもらって、高校卒業と同時に上京してデビューしました。まずは名前を覚えてもらうために、コマーシャルソングを中心に活動。これまでに700曲以上を歌いました。
NHKの歌番組にレギュラー出演することが決まったときは両親が喜んでくれました。けれど、放送の2日前、母は子宮がんで42歳の若さで亡くなりました。晴れ姿を見せることができなかったのは残念ですが、少しは安心させることができたのかな。その後は全国各地でコンサートに呼ばれるようになりました。
娘が小学3年生だったある日…
30歳のとき、所属プロダクション社長の夫と結婚。翌年に長女を出産しました。多忙な時期で、妊娠9カ月まで仕事をして、産後は半年で復帰。仕事をする姿を見てもらうことは大事だと思って、幼い娘を連れて仕事場へ行きました。リハーサル中などは、バンドの仲間が娘と遊んでくれて、みんなで協力して子育てをしている感じでしたね。
娘が小学3年生だったある日、事故でバイクにはねられて頭を強く打った私が、生死の境をさまよったときも、歌と家族の存在が心の支えになりました。1週間後に意識が戻った後、寝たきりで体が動かず、記憶障害で持ち歌をすべて忘れていました。ただ、1カ月後にはコンサートがあり、病院で日中はリハビリ、夜は歌の練習に励む日々。娘には病状を詳しく知らせませんでしたが、テレビや週刊誌の報道で重病だと感づいていたようです。
「お母さんは大丈夫だよ」
ようやく面会許可が出て会ったとき、「心配かけてごめんね。家に帰ったら、炊き込みご飯のおにぎり作るね」と約束しました。頭に包帯を巻いたままの痛々しい姿でしたが、お母さんは大丈夫だよと伝えたかったからです。
その後、無事にコンサートは終了。仕事で全国を飛び回る日々に戻りました。6年前に二人三脚で仕事をしてきた夫が亡くなってからは、娘がマネジャーとして切り盛りしてくれています。コロナ禍でコンサートなど全てなくなり不安でしたが、ようやく再開し始めました。歌を通して心の触れ合いを大事にしてきたので、これからも歌でご縁をつないでいきたいと思っています。
芹洋子(せり・ようこ)
1951年、大阪府出身。1970年からNHKの歌番組「歌はともだち」にレギュラー出演し、1972年に「牧歌~その夏~」でレコードデビュー。コマーシャルソングを数多く歌うほか、1978年にNHK紅白歌合戦に出場。代表曲に「四季の歌」「坊がつる讃歌(さんか)」など。
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