芸人 ハリウッドザコシショウさん 一人で育ててくれた母に、売れるところを見せてあげたかった

石川由佳理 (2024年4月28日付 東京新聞朝刊)

母親との思い出を語るハリウッドザコシショウさん(松崎浩一撮影)

我慢強い人。仕事はネクタイ売り場

 父親との思い出はないんですよ。俺が2歳の時に亡くなっているから。母親は我慢強い人。(静岡市にあった)西武百貨店のネクタイ売り場で働いて、育ててくれました。

 お笑い番組は、幼稚園ぐらいの時からずっと見てましたね。芸人になろうと決めたのは小学2年です。当時はいじめられていて、つらかったですけど別にいいと思ってました。同級生や先輩後輩とかの次元じゃないというか。こいつらとは一生つるまないよってずっと思ってましたから。

 芸人になると母に伝えたら「どうせ続かないよ。厳しい世界だから」って言われましたね。良い高校とかに行ってほしかったらしくて、俺に英才教育みたいなのをしてたんですよ。心の底では、お笑いしかやらないんだから絶対に無駄だと思ってました。

 高校3年の時、俺が芸人になるってきかないから、母が親戚に相談したんです。母の妹の夫が「やらせてあげたらいいじゃないですか」と言ってくれて、母も認めてくれました。卒業後に大阪でNSC(タレント養成所)に入って、同期とマージャンをしてたら、部屋の保証人だった母に苦情が行って「マージャンしてるんだったら、もうやめたら」と言われたこともありました。それからは、こっそり音を立てずにやってました。

今も思う 母はいい人生だったのかな

 バラエティー番組「あらびき団」に出ることになった時は、母に連絡しました。司会の東野幸治さんが笑いをとれるように、俺のことをひどくいじるじゃないですか。でも母はそれを理解できないから、「変な感じで言ってたねえ」と心配していて。いや、それお笑いのためにやってんだよって言いましたけど。

 そんな母が、乳がんになりました。病院に行かずに自分で手当てして、しんどくてフラフラしていたそうで。最初は「治るかもしれない」って言ってたんですけど、全身に転移していて、もう無理でしたね。早く気づいてやりゃあよかったんですが、余命1カ月とかで。俺も見舞いに行くようになって半年ぐらいは生きてくれたのかな。

 仕事中に親戚から電話があって、終わってから折り返したら「亡くなったよ」って。それまでの1、2カ月、「しんどいしんどい」と言ってたから、ほっとしたのもあるし、悲しいのもあるし。なんか申し訳ないっていうのもありましたよね。今も「母はいい人生だったのかな」みたいなことを思う時がありますよ。

 亡くなってから10年以上ですが、お母さんのことはめちゃくちゃ好きですね。どんなところがって聞かれると、ちょっと難しいんですけど、存在ですかね。売れたら親孝行って言うから、早く売れるところを見せてあげたかったな。今、一応成功はしたんで「お笑いをやらせてくれてありがとう」って伝えたいですね。

ハリウッドザコシショウ

 1974年、静岡県清水市(現静岡市)出身。1992年にタレント養成所、NSC大阪校に入学。42歳だった2016年、ピン芸人の頂点を決める「R-1ぐらんぷり」で優勝。出演番組やライブなどの情報は、所属するソニー・ミュージックアーティスツのホームページやX(旧ツイッター)で確認できる。