作家 小川糸さん クリスマスプレゼントは1万円札 亡くなって気づいた、不器用な母の愛

吉田瑠里 (2020年3月29日付 東京新聞朝刊)

小川糸さん(横田信哉撮影)

祖母が手作り、地味すぎるおやつが不満で 

 山形の実家では両親と姉2人、祖母と暮らしていました。母は泊まりもある仕事をしていて、家族の食事を作るのは祖母。お寺の生まれで、精進料理がうまく、野菜を使った煮物をよく食べました。

 おやつはちょっと古くなったおまんじゅうを揚げたり、お餅をあられにしたり。地味すぎて、小学1年くらいのころ「友達のお母さんはかわいいお菓子を用意してくれる」とわがままを言いました。

 翌日、家に帰ると、ストーブの上のフライパンでホットケーキを焼いてくれていました。味よりも、その行為がとてもうれしかった。

 私が小学校で具合が悪くなった時や、帰りのバスを間違えて遠くまで行ってしまった時は迎えに来てくれ、愛情を教わったと感じています。

母とは価値感が合わず でも卵焼きは好き 

 母とは価値観が合いませんでした。クリスマスプレゼントはのし袋入りの1万円札で、違和感がありました。厳格で、幼稚園児の私に小学生用のドリルを解かせ、できないと激しく責められました。

 それでも毎日のお弁当は母が作ってくれました。甘い卵焼きがすごく好きで、切れ端をその日の朝ご飯にしました。小学校の運動会は家族でお弁当を食べるのですが、母は必ず栗ご飯を作ってくれました。それが楽しみでした。

負の側面ばかり見て、愛情に気づかなかった

 がんになったと告げる電話が母からかかってきたのは4年前。それまで、しばらく距離を置いていましたが、入院している母の見舞いに行くようになりました。母は体力が弱り、記憶もあいまい。もう厳しい母が戻ることはないという安堵(あんど)感もあり、いとおしいと思うようになりました。

 その後間もなく、母は亡くなりました。生前は負の面ばかりを見ていた時期もありましたが、良い思い出もあったことに気付きました。小学生のころには夏休みに河原にメダカ捕りに連れてってくれたこともありました。

 栗ご飯を作ろうと、私も生の栗をむいてみたのですが、すごく大変で、私にはできないと思いました。母は忙しかったのに、頑張って作ってくれていた。そこには愛情があったと、亡くなってから気付きました。

再現できないあの味 ぜったいにかなわない

 母は自分の思いを伝えるのが苦手だったのかもしれないけれど、本当は私をすごく愛してくれていた。母が元気なときは私は反発して、母をきちんと見ることができていなかった気がします。

 25年前に亡くなった祖母からは、亡くなる前に電話で甘辛いフキのきんぴらの作り方を教わりました。いまだに再現できない祖母の味。今は母からあの甘い卵焼きの作り方を聞けば良かったと思います。ぜったいかなわないなと思いますね。

小川糸(おがわ・いと)

 1973年、山形市出身。2008年、小説「食堂かたつむり」(ポプラ社)でデビュー。失恋後に声を失った女性が開いた食堂を巡る人間ドラマで、映画化された。食や命などをテーマにした作品が多い。最新刊のエッセー集「旅ごはん」(白泉社)は、欧州で出合った料理や山形の思い出の洋菓子店などを題材にした。