ふと顔を出す「残さずきれいに」〈瀧波ユカリ しあわせ最前線〉5
時代とともに食品も変わる
「赤いところが残ってる!」
つい、大声を出してしまった。テレビ画面には、スイカを食べ終わって満足げに笑う子どもたち。スイカの皮には、赤い実がまだ少し残っている。声を聞いて振り返った娘に、お母さんが子どもの頃は皮の内側が白くなるまで食べてたから…と説明すると、だから何だというのか、という目をした。それを見て私も思った。だから何だというのか。
あの頃は「残さずきれいに食べなさい」と言う大人がそこら中にいた。家庭でも学校でも、子どもたちは怒られるのが怖かったから、時には無理をして食べた。40年近くたった今は「残さず食べるのはよいことだが、それを強制したり、残したことを責めたりするのはよくない」という考えが一般的になった。少し残したとしても、楽しく食べるほうがずっといい。そう思っていても、「残さずきれいに」はふとした拍子に顔を出す。子どもの頃にされたしつけは、ずいぶん根強く残るようだ。
時代が変われば常識も変わるが、食品そのものも変わる。たとえばブドウ。昔は皮と種を取り除いて食べていたが、今は種なしが普通だし皮ごと食べられるものも少なくない。なので、子どもは種ありブドウを嫌がったり、丸ごと口に入れたあと「この皮、食べられないの?」と驚いたりする。これはわが子だけではなく、複数の友人の子どもたちも同様とのこと。
私の胸がざわつく理由は…
魚も、今は骨を除去したものを選べる。コンビニには骨なしの焼き魚や煮魚のパックが並び、娘も好んで食べている。「魚の骨を攻略してこそ一人前」という意識がある港町育ちの私は最初こそ抵抗を感じたが、今はすっかり気に入って冷凍の骨取りサバをまとめ買いしている。
そんなふうに世の進化を受け入れながらも、私の胸は時々ざわっとする。なぜか。きっと不安だからだ。いつかこの便利な時代が終わり、またブドウが食べにくい仕様に戻り、骨取り魚が高額になったら、わが子は生きていけるのか? こうして文章にするとばかみたいだが、あらゆる余計な心配をするようにプログラムされているのが親というものだ。
もし実際そうなっても、わが子はそれなりに生きていくだろう。だが果物の皮も種も飲み下し、魚を骨ごとバリバリ食べる人間のほうがきっと生存確率は高い。たまには、魚を丸ごと使う料理を作って出すのもいいかもしれない。アクアパッツァとか。でも、残されたら嫌だなあ…。なかなかどうして、「残さずきれいに」を捨てきれない私なのだった。
【前回はこちら】もうすぐ夏休み 親にとっては長い戦いの幕開け
瀧波ユカリ(たきなみ・ゆかり)
漫画家、エッセイスト。1980年、北海道生まれ。漫画の代表作に「私たちは無痛恋愛がしたい~鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん~」「モトカレマニア」「臨死!! 江古田ちゃん」など。母親の余命宣告からみとりまでを描いた「ありがとうって言えたなら」も話題に。本連載「しあわせ最前線」では、自身の子育て体験や家事分担など家族との日々で感じたことをイラストとエッセーでつづります。夫と中学生の娘と3人暮らし。