「同意していない」性暴力被害者の声が尊重されない社会で〈瀧波ユカリ しあわせ最前線〉10
NOがNOの意味をなさないなら
年末、「言葉つむぐデモ」に行ってきた。このデモは、強制性交罪に問われた滋賀医科大生の男性被告2名を、大阪高裁が逆転無罪にしたことに抗議するため開催された。行進やシュプレヒコールは行わない。参加者は付箋に思い思いのメッセージを書き、ボードに貼る。そして参加者同士で対話をする。
東京駅前の広場に集まった200名ほどのうち多くは女性だが男性の姿もあり、20代から70代くらいまでの幅広い年代の人々が、寒空の下で思いを分かち合っていた。若い参加者たちの姿が、自分の中学生の子どもと重なる。きっと10歳も違わない。
犯行に関わったとされる3名中の2名が無罪とされ、大阪高検が最高裁に上告しているこの事件では、被害者の女性が「嫌だ」「やめて」「痛い」と言う動画が残っている。それにもかかわらず無罪とした二審の判決に、心が凍るような思いだ。性行為を迫られる中で必死に伝えたNOがNOの意味をなさないとされるなら、私たち女性の尊厳などないに等しいではないか。
今日生まれた子どもも、20年足らずで大人になる。それより前、第二次性徴を迎える頃(あるいはさらにその前)には、本人が望まぬとも性的欲求を向けられることもある。子どもに危険を察知し回避する術(すべ)を伝えたとしても、大人がその警戒心を解いたり判断力を鈍らせることなど造作もない。どんなに心配して教えても十分と思えず、しかし言い過ぎてもよくないかと逡巡(しゅんじゅん)する親は多いだろう。私もそうだ。
対策が十分でないのは社会のほう
だが、声を大にして言いたい。被害を生まないための対策が十分でないのは「被害に遭いやすい者」ではなくて社会のほうだ。また、性暴力とは何かの知識をつけるべきは本来「被害に遭いやすい者」よりも「加害をする可能性のある者」のほうだ。そして、性暴力事件が起きた時に「同意があると思った」と言う加害者の声よりも「同意をしていない」と言う被害者の声が尊重されるべきなのだ。
「力を持つ人たちの暴力への無関心を終わりにしたい。その人たちには責任がある」。私は付箋にそう書き、ボードに貼った。力とは、身体的な力のことでもあり、組織の中で物事を決める権力のことでもある。力を多かれ少なかれ持つ私たち大人にこそ、社会をよりよくするために力を使う責任があると思う。
実はこのコラムの「しあわせ最前線」というタイトルには、しあわせのために最前線で声をあげ繫(つな)がろうという意味がある。2025年もそんな一年にしていきたい。
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【連載タイトルに込めた意味は】〈瀧波ユカリ しあわせ最前線〉他愛ない日常の中にこそ
瀧波ユカリ(たきなみ・ゆかり)
漫画家、エッセイスト。1980年、北海道生まれ。漫画の代表作に「私たちは無痛恋愛がしたい~鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん~」「モトカレマニア」「臨死!! 江古田ちゃん」など。母親の余命宣告からみとりまでを描いた「ありがとうって言えたなら」も話題に。本連載「しあわせ最前線」では、自身の子育て体験や家事分担など家族との日々で感じたことをイラストとエッセーでつづります。夫と中学生の娘と3人暮らし。