
日常の声かけに潜む
小さな思い込み
子どもの“ありのまま”を
大切にするには
「男の子なんだから泣かないで」「女の子はしっかりしているね」
日常の何気ない声かけのなかに、性別に基づく“小さな思い込み”が隠れていませんか?
東京すくすくでは、Instagramやインターネット調査(※)を通して、子どもへのほめ方・しかり方にどんな無意識のバイアスが入り込んでいるのかを探りました。
「つい言ってしまったあとで気づいた」「言葉でしばっていたのは親のほうだったのかも」
こうした声を受けて、ジェンダー教育が専門の堀川修平さんと、小学校、幼稚園で性教育実践を進めてきた北山ひと美さんに話を聞きました。
“気づけば変わる”――日常の声かけを見直すためのヒントを、一緒に考えてみませんか。
※東京すくすくのInstagramで「子どものほめかた・しかりかた性別によって変えていませんか?あなたのエピソードを教えてください」とするアンケートを実施。Instagram上でのコメントとWebフォームからの投稿を募り53件の回答を得た。実施期間は2025年10月6日~10月15日。
聞き手:東京新聞編集局東京すくすく部部長 安藤美由紀
なぜ大人は子どもの性別によって声かけがかわるのか
今回実施したアンケートでは回答者の8割が「性別で声かけを変えたことがある」や「無意識のうちに使い分けていた」と答えています。なぜ性別によって声かけや態度に違いがでてしまうのでしょうか?

堀川私も学生からよく聞かれます。
北山お悩みというよりは、気になって仕方ないという保護者の話をよく聞きます。「そんな風に言う?」というような。性別で声かけを変えていた人が8割というのは、おおよそ想像していましたが、やっぱりそうなんだ、と感じました。学校でも性教育ではない話をしていても「うちの子は男の子で」「女の子だから」という話が当たり前にありますし、今回のアンケートの回答内容を見ても、教員ですら同じようなことを言っています。
ただ長年教員をやっていて、(性別によって態度や声かけを変えてしまうことを)気にする保護者の方が増えてきたと感じています。教員と保護者で作る性教育サークルでも、私たちが育っているときは気づかなかったけれども、気をつけなくちゃいけないね、など話します。ですが、それ以外の人が大半だとすると、変わっていないなと思います。
堀川私自身は大学時代にジェンダーを学んでいなかったら、回答にあるような発言をしていたかもしれないと思います。そしてそのまま教員になっていたら「男の子なのに偉いね」とか言ってしまっていただろうと。
北山さんが気づくきっかけになったのはどんなことでしたか。
北山私は1980年代前半に教員になり、最初は3年間、幼稚園に勤めました。記憶は定かではないのですが、当時は「そんな乱暴な言葉、女の子は使わないで」というようなことを言っていたと思います。私自身、そう思い込んでいたし、育てられてきたので。
その後、性教育関連のセミナーに参加して、はっと気付きました。性教育との出会いは大きかったです。
私には男女男と3人の子がいますが、下の息子が姉のお下がりの真っ赤なパジャマが大好きで保育園で着ていたのですが、ある日突然、「明日からもう着ない!」と言いました。保育士から「女の子みたいでかわいいね」と言われたからでした。息子なりに「かわいいは違うぞ」と思ったようで、着るのをやめてしまいました。それ以来、今も白と黒しか着ていないです。
堀川恐らく周りの教員も家族もよかれと思って言っていますよね。男の子だから、女の子だから、えらいよね、すごいよね、とほめているつもり。その子が大事だから言っているんだと思いますが、その子はその言葉がほしいとは限りません。「あなただからすてきだね」ではなく、性別にひも付けられて言われると、違和感を持つ子はいると思います。その子の可能性が奪われてしまい、もったいないと思います。
「男の子らしさ」「女の子らしさ」という意識はいつできるのでしょうか?

堀川私たちがもつ「女らしさ/男らしさ」といったジェンダー観は、生まれながらにして持っているものではなく、育ちの中で社会や文化の影響を受けて身につけてしまうものであるということがジェンダー研究の蓄積で分かっています。子どものうちから周りの大人や仲間である子どもたちと育つ中で、無自覚にすり込まれてしまい、そのまま大人になると、当たり前の価値基準なのだと思い込んでしまうのです。
アンケートでは「ほめかた・しかりかたを性別で変えることは必ずしも悪いとは思わない。男の子だから、女の子だからという前置きをすることはないが、経験上女の子にはさらっと言って伝わるのに男の子には同じ方法では伝わらず繰り返し伝えることがある」という回答もありました。教育現場で先生たちはどのように考えているのでしょうか?
北山子どもに関わる仕事をしている人で、同じように思っている方は一定程度いると思います。職業として触れているので余計に確信を持って「女の子はこう」「男の子はこう」と、その子の性格ではなく受け止めている。そういうかたたちが教育や保育の現場にいると、親御さんたちに与える影響は大きいのではないかと思います。特に子育てが始まったばかりの方には、そこでもすり込まれていく。私たちはもっと子どもたち一人一人を見て、考えなくてはいけないと思います。
堀川今回の対談を前に、私は森口佑介さんの『つくられる子どもの性差-「女脳」「男脳」は存在しない』(光文社新書)を読み直してきました。その中でも、このようなコメントも見られますし、私自身が出会ってきた学生や教員、親御さんのなかにも同じような考えを持つ方がいます。教育者もそうですし、子どもと接している人ほど、自分が見ている子どもの姿がすべてだと思ってしまう。これも一つの認知バイアス(※1)だと思います。
そしてバイアスがある中で子どもを見ていくと、「やっぱり女の子だからこうなのよね」というように、自分が納得できるできごとや、振る舞いを「正解だ」と選択していきます。一方で、納得できないできごとや、腑に落ちない出来事、ふるまいは「ハズレ」としてスルーされます。そういうなかで、男女の違いが、無自覚的に強化されてしまうのではないでしょうか。
私たちは、性にかかわらず、誰でも納得いくものを選択してしまうというバイアスがあります。ですから、納得できないものに出会ったときにどう受け止めるか。そういう考え方もあると思うのか、自分の見方が偏っていたかもと気付くのか。大人が新しい学びに意固地にならないような接し方、大人の育て方が大事で必要なのだと思います。
今回の子どものしかり方や褒め方もそうですが、子どもをしかる大人をどのように育てるのかが重要ではないでしょうか。大人はこれまでの人生で価値観を身につけてしまっているので、頭ごなしに言っても拒絶されたり、怖がられたりするかもしれません。北山さんも私もそうですが、一度学んで過信して、その後学びつづけなければ、子どもの現実を捉えながら社会のゆがみに気づくのは困難ではないでしょうか。子どもに向き合うおとな自身がまず学べるような機会が必要だと思います。
性別による声かけの違い、子どもはどう感じているのか
性別によって声かけを変えた経験があるという方に、そのとき子どもはどう反応したかを聞きました。
「女の子だからダメって言われていやだった」
「男の子だから泣かないでって言われてなぜだろうと思った」
このような子どもたちの反応を聞いていかがですか?

北山「男の子なんだから泣かないで」と言ってしまうことは昔からあります。小学校で「言われたことある?」と聞くと、今でもほとんどの男子の手が挙がります。
堀川大学生もそうです。
北山高学年の子とは「おかしいよね、男だって泣きたいよね」というようなやりとりができます。しかしそれが幼児になるとそうはいきません。小さな子どもにとって、親や先生の言うことは絶対ですよね。そこですり込まれてしまいます。今回聞いた子どもたちからは「嫌だった」「なぜだろうと思った」など正直な気持ちが出せていたのが素晴らしいですね。
堀川学生と「らしさ」の話をすると、「しんどいから極力考えないようにしてきた」という方が結構います。そのような状況が、大学で学ぶ中で変容していく。もやもやを封じ込めていた蓋が取れて、「こんなにもやもやしていたんだ」と20歳目前に気付くなんてことも多々あります。
私が学生と関わる中で、とてもつらくなるのが、そのような年齢になると、将来の選択もすでに済ませている可能性があるということです。「男だから」「女だから」というジェンダー観に基づいて人生設計をしている学生とも出会うためです。もちろん、人生はいくらでもやり直しがきくと思いますが、「らしさにとらわれなくてよいのだ」と思っていれば、不必要に遠回りはしなくても済んだかもしれません。ですので、子どもの頃から「嫌だ」「うれしい」と意見が表明できるような関係性を作っているということはすごくいいことだと思います。
その上で、嫌だと思ったのはどんな言葉掛けをされたときか、が気になりました。ジェンダー研究の中では、男の子と女の子ではかけられる言葉の質が違うということがあきらかになっています。男の子は「負けるな」「頑張れ」と激励されがちであり、一方で、女の子は「ほどほどに」「頑張らなくてよい」というように「期待されない」ということがあります。
例えば受験において、女の子に対しては「ほどほどに」一つランクを落として、浪人しないように、留年しないように、家から通えるようになど、その子のために良かれと思って親や学校の先生が指導をするということがあります。一方で、男の子に対しては浪人してもいいとか、県外の大学に挑戦してもいい、「ほかの子に負けるな」「必死で頑張れ」などと言っているなんてことはよく聞く話です。
きょうだい間で、女児である自分と男児である弟との言葉かけ、育てられ方の差にもやもやしたという女子学生からの訴えも、何度も聞いたことがあります。読者の中にもそのような経験の方もいるかもしれませんね。このように、男女によって押しつけられ方、望まれ方が違う。それがしんどかったという子もいます。
そして、しかり方も何をどうしかるのか。同じ行動をしかるのではなく、性別によってしかられ方が違うという場合もあるでしょう。そのような、基準が不透明な指示は、大人への不信感を生み出していきます。「あの子はひいきされている」というようにです。
北山主に母親からよく聞くのは「女の子なのに片付けが苦手で」というような話です。裏を返せば男の子は少々、片付けられなくても良いということ。男の子はいいよ、全部私がやっているよと。女の子は今も将来も自分のことをきちんとやり、他の人の世話もしなさい。つまりケア役割みたいなものが頭の隅の意識にあるんだと思います。女の子は何も言わなくてもきちんとしているというのは、きちんとしていることを押しつけられてきたから。女の子としての生まれ持った性格だというのは、そう思い込んでいるだけではないでしょうか。
堀川今はテレビ番組やアニメもジェンダーニュートラル(※2)な番組が増えていますね。私が子どもだったときに今のような状況だったら育ちが違ったかなとも思います。
そのような変化が見えていても、まだまだ、男の子はこう、女の子はこう、というイメージが子どもたちの周りにもあふれています。なによりも教育の場面で「女の子はしっかりしている」、「男の子は多少乱暴でもそれは元気だからよい」などと言ってしまう。そういう情報をシャワーのように浴び続けてそのまま大人になると、暴力やハラスメントを軽視してしまう、気づけない大人になってしまうのでしょうね。
「男子はバカだから」と先生に言われたという声もありました。よく聞く言葉ですが、どう思いますか。
堀川それは男の子を甘やかしているし、同時に馬鹿にしてもいる。二重に良くないです。
北山現場でもよく聞く言葉です。「男の子はバカだから仕方ない」「わかってないから」で済ませてしまう。
堀川逆に「女の子は早熟」と言われることもありますね。私自身も高校時代にそう言われて、何となく納得してしまったけれど、人によります。男の子は足りなくても仕方ない、女の子はしっかりしなきゃいけない――そんな二重基準は、もう終わりにしないといけませんね。
無意識のバイアスに気づくために
性別に関係なく、子どものありのままを大切にし、受け入れたいと頭では思っているのに大人は行動が伴っていないようです。なぜでしょうか?

堀川もしかすると、保護者や教師といった教育実践者が、自分の持っているサンプルだけで目の前の子どもを判断してしまうためではないでしょうか。私自身、研究者として危機感を持っているのは、このことです。日々教育実践されている方たちに頭が下がる一方で、私たち研究者は、実践者の方とつながりながら、「その価値観はもしかしたら非常にサンプル数の少ないデータでの判断ではないですか?」と、多様な見方を示す役割を持っているのだと思います。繰り返しになりますが、このような点も含めて、おとな自身が性について学ぶ機会が足りていないのだと私は思います。
北山理論的な部分では研究者の方から多くを学んでいます。私たちは経験の中で完結してしまいがちですから。私と堀川さんが所属している「“人間と性”教育研究協議会」(性教協)、私は人生の多くを育ててもらっているわけですが、性教協に入ってから、生き方、家族との関係の作り方、私自身も変わりました。他の実践者や研究者のみなさんの話を聞いたからです。
堀川私自身も性教協や、大学での学びを通して、少しずつではありますが変化してきていると思います。
北山子どもとの関わり方では保護者も教員、保育者もそれぞれ葛藤していると思います。家庭、親子、そして親の世代との関係もさまざまだと思います。
大人はまず無意識のバイアスがあることに気づくために、何から始めるのがよいでしょうか?

堀川私は、自分で思っている以上に学生から「すごく言葉を選んでますよね」と言われます。1人2人の学生に話すときも、この人たちにはいろんな背景があるだろうな、と考えて話します。それが100人、200人の前で話すとするとそれが100倍、200倍となるわけです。私の口からふと出てしまう言葉が誰かを傷つけるかもと思いながら、それでも伝えたいことを言葉にしています。言いよどみを含め、相手の反応を見ながら、違うな、誤解されているなと思ったら、違う言葉を選んだりもします。
そういう意味では、目の前の人をちゃんと見るということ、当たり前のことかもしれないですが、大切だと思います。この人の属性、たとえば「女だから」とか、「日本人だから」「障害がありそうだから」、など外見で判断するのではなく、その人のニーズや、どんなことに困っていて知りたいと思っているのかを、直接話を聞きながら、考えていく。独りよがりでの判断ではなく、目の前の人と関わりながら、その人のほしい言葉や情報といったニーズに合ったものを提供したいと思いながら実践しています。
北山それは本当に大事にしなくてはいけないと思います。こちらが思い込んで伝えてしまうことは避けなくてはいけない。
堀川大人は言葉で返してくれたり、態度で分かるかもしれないのですが、子どもはそうはいかないかもしれませんね。北山さんは子どもたちに対してはどういうことに気をつけていますか?
北山違うよ、それは嫌だよ、とぱっと返してくれる子どもはそれでよく、こちらもそう言われてみてはっと気付くことができます。そうではない子ども、授業ではさまざまな背景を持つ子どもたちがいるので、伝え方は常々気をつけなくてはとは思います。私が勤めていた学校は言いたいことが言える学校で「イヤなことはイヤだと言っていい」「言いたいことは言っていい」と子どもたちは思っています。ただそういう環境でも言えない子はいます。
堀川北山さんが勤務されていた和光小学校は子どもの権利を大切にされていますよね。子どもの権利には、同意の話にもかかわる意見表明権が含まれます。といった時、子どもが嫌だといったときに、大人がちゃんと受け止められるのか。頭ごなしに子どもの意見をつぶしちゃっていないか、権利を侵害していないかを確認できているのかなと思いました。
ジェンダーに関わることだけではなく、何をしたいのか、どう生きたいのかなど、子どもをちゃんと一人の人間としてみて、ディスカッションしているか。わがままではなく、子どもの権利を認め、子どもがチャレンジしたいと思うことをサポートするのが教育のありようかと思います。そしてその時に性別に関わる声かけをしないとか、その人の属性一つを取って発言しない、というのが自分自身のバイアスに気づくためには重要だとおもいます。
家庭や保育・教育現場でできる工夫とは
大人が実践していくためのヒントはありますか?

北山回答してくれたみなさんは意識をしている方々ですよね。それだけでも違うと思います。
私は保護者との何げない会話の中で男女に関わる声かけなどについて出てきたとき、聞き逃してしまわないようにしたいと考えています。とがめだてするのではなく、「女の子だから、ではなく片付けできたほうがいいですよね」とか、遠回しで言ってみたりします。大抵は「なんでそんなことを先生が言うの?」というような反応です。うるさい人と思われると会話ができないと思うし、講演会など一度きりしか会わない人だとはっきり言えるのですが、保護者の方はその後の関係性を考えると言い方が難しいです。
堀川そういう場合は段階を踏んで、いきなり踏み込まないほうがよいですね。
関係性が近ければ近いほど、難しい側面もあると思います。いろんなアプローチの仕方があると思います。単刀直入に伝えられる関係だったらそれでいいのでしょうが、そこまでの関係ではなかったとしたら「なるほど、そういう考えがあるのですね。ただ、私はそうは思いませんけどね」と、直球に「直してほしい」というのではなくて、自分はこう思うというような「私の受け止め方」を示すというアプローチもあると思います。
北山さんが「笑ってごまかさない」という話をされていましたが、私もそれは重要視しています。学生に対してよくするのは、目は口ほどにモノを言うか、しかめ面や苦笑いしたりして、それは受け入れられないですよ、伝える。それでも、何もしないよりはいいと思います。
これは、ハラスメントやいじめにも関わります。その出来事を、無視しない、なかったことにしない。そこだけは最低限の共通認識にしましょうね、というのは学生には伝えています。というのも、クラスで深刻な問題があったときに教師がどう振る舞うのか、子どもたちはよく見ています。教師が何も言わなければ、「先生がダメと言わないことはやってもいい」と、認めたことになってしまう。それが家であれば、「お父さんお母さんが何も言わなかったからやってもいいんだね」、となる。ですので、行為を無視しないで何かしら取れる対応をする。「そうは思わないな」「笑えないな」とか一言伝えるのも一つの手法だと思います。
北山テレビとか見ていても、ちょっと問題だなという発言や表現があるときは、お母さんはそう思わないけど、とかぽろっと言ってました。テレビ番組への突っ込みどころはたくさんあるので。親がどういう考えを持っているか、伝えることはできますね。
堀川これはいいね、とほめる部分もほしいですね。周りの大人はこういうことをいいと思っているんだというポジティブなメッセージになります。
例えば、テレビを見ながら「こんなおかまみたいなやつが出て」みたいな話を大人がしていたとして、横にいる子どもが実際に性的マイノリティであったら、「こんなこといううちの親にだけはばれないようにしよう」と思ってしまうでしょう。
タレントさんが行うような「ワイプ芸(※3)」ではないですが、言葉以上に表情で伝えるとか。
ちなみに、私は教室で教材動画を見せるときには、学生が私の表情を見える席にわざと座ります。私自身もともと表情に出やすい人間なのですが、そこではなおさらに意識しながら、ときに深刻な顔をしたり、微笑んだり、と、学生にその教材がどのような質のものかを伝える教育効果を狙っています。
北山テレビではなくても読み聞かせなど一緒に何かをして価値観を伝えたいですね。
堀川そういう意味ではさまざまな家庭がある中で、親御さんにすべての対応を求めるのは酷なことだと思います。そういう意味で、同じ年頃の子が学び合える保育園幼稚園、学校のような場が貴重だと思います。学校で包括的性教育を学ぶ意義があります。学校だからできるということに希望を持ちたいです。
例えば、日常生活の中で教員がどう言葉を使うかがメッセージになります。子どもたちに対してだけではなく、同僚同士の中の会話。例えば人権学習の講話をした後に、教員が「おまえら、おかまか!」といったように「ホモネタイジリ」をしていると「さっきまで立派なこと言っていたのにどっちが本音?」と興ざめしてしまいますよね。
北山一昔前までいくらでもありましたよね。立派な先生だと思っていた人が「結婚しないの?!」とか、「子どもはそろそろ?」とか当たり前のように言ったり。
堀川学校が本当に男女平等な場かというと、『学校の「男性性」を問う』(旬報社)という書籍があらわしているように、たとえ男女共学であっても、教師自身が無意識のうちにジェンダー不平等な働きかけをしていることがありますし、そのような状況は問われ直さなくてはいけないと思います。私たちは、学ばないと気づけません。学ぶきっかけさえあれば誰でも変わるチャンスがあります。だからこそ、学校教育の中に学び会える環境がどれだけ保障されているのかが大切だと思います。
ジェンダーの問題は社会と地続きで、志のある人が頑張ればいいという話ではありません。すべての人が活動しやすいように社会制度を整えるのが政治家の仕事だと思います。ワークライフバランスを無視して「馬車馬のように働きましょう」と言うようでは、本末転倒です。先生たちが子どもと向き合い、子どもの考えていること、子どもがうれしいこと、あるいは生きづらさなどについて考える余白を持てるような制度設計をする責任は、政治にあると思います。
ですのでここで伝えたいのは、「志ある先生や親が頑張ってください」ということではなく、「頑張れる風土を一緒に作りましょう」ということです。そうでなければ、頑張ろうとする人、すでに頑張っている人ほど挫折してしまいます。学校現場では、先生の心身の不調という形でも現れていますよね。困っている人や、その状況を何とかしたいという人が声を上げても、今度は周りから「気にしすぎ」と言われてしまうこともある。そのような状況を、社会全体の課題として捉え直したいですね。
北山教員や保育者こそ、包括的性教育を学ばなければならないと思います。でも現場はとても忙しく、目の前の準備で精いっぱいです。そんな中で性教育をやろうとする人は本当に稀です。私たちが包括的性教育のセミナーを開いても先生たちは時間が取れず、参加ができない状況です。まずは大人たちの働き方を改善してもらいたいですね。
祖父母世代と親世代といった世代間や夫婦間で意識に差がある場合はどうしたらいいでしょうか?

北山昔の話ですが、夫は富山出身で、彼の実家に行ったときに食事の支度を一緒にしようとすると「男の人が来てはいけません」と強いいいかたではないけど、「何をうろうろしているの?」という雰囲気でした。けんかをしても仕方ないので、「うちでは一緒にやっているんですけど」とつぶやいたり。誰も聞いてはいないのですが。うちは子どもたちも家事をやらないと回らなかったので一緒にやっていると、時代が変わってきてだんだん我が家と同じようにみんなで一緒に準備するようになりました。夫の家族のみなさんの意識が劇的に変わったわけではないけれど、「この人たちがきたら一緒にやるんだな。こういう形もあるんだな」と思ってもらえるだけでも意味があると思っています。
堀川大学生らのコメントにもよくありますね。「正月に祖父母の家に行くと、女の子だけが手伝いを言われ、男の子は座っている」と。地域や世代によって違いはあるかもしれないが、今も根強いなと思います。
相手との親密さの程度、相手の性格にもよりますが…。私は、ぼそっと一言「違うと思うけどなあ」なんてつぶやいたり、関連するような本を置いておくとか、PCの検索画面をそのページにしておくとか、「私は意識していますよ」ということを伝えるようにしています。机に本の表紙が見えるように置いておけば、子どもたちや同僚も目にします。家庭でも、言葉にせずテーブルの上に本を置いておくだけでもいいと思います。それだけで意識が大きく変わるかどうかは分かりませんが、スタート地点にはなるかな?と思います。
無意識のバイアスに気づくことがスタート地点
この記事を読んで、自分に無意識のバイアスがあることに気づいた人、関心を持った人たちへメッセージをお願いします。

堀川あきらめないことです。時間がかかっても繰り返し伝えます。そして、自分が何から何まですべてを変えようと思わないことも「挫折しない」ためには必要かと思います。
たとえ、私が誰かを変えられなくても、ほかの子どもや人を介して伝わることもあります。伝え方はいくつもあって、そのとき有効なカードを切る。何から何まで自分一人で変えようとしなくても、自分と関わる誰かが変えてくれるかもしれない。そんなことに期待を込めたいと思います。
北山「自分はこう思っている」「こういうことに関心がある」と伝えるだけでも意味があります。押しつけるわけではないが、できる限り伝えたい。新聞の切り抜きを置いておくと、息子が知らんぷりしながらも読んでいたりします。
堀川私はSNSで情報をシェアして「関心があります」ということを見えるようにしています。紙の新聞でもSNSでも、方法は違っても思いは同じですね。
北山何よりも、気づくこと自体が大きな一歩です。無意識のバイアスに気づくことは、大きな力になります。私たちは年を重ねるほど思い込みが強くなるけれど、立ち止まって考えることを大切にしたい。
堀川今回のアンケートではたくさんの方が関心を寄せてくださってありがたいのですが、全員女性だったのには驚きました。男性たちの姿はどこに?とも思ってしまいました。
北山「子どもを褒めるのは女性の役割」という意識もまだありますね。
堀川大事なのは、その子のことを本気で考え、性別でなく「あなた自身が素晴らしい」と、すべての人が伝えていくことだと思います。
堀川修平(ほりかわ・しゅうへい)
東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は、日本の性教育実践と実践者の歴史・性的マイノリティ運動の歴史。現在、日本学術振興会特別研究員(PD)、埼玉大学ダイバーシティ推進センター特定プロジェクト研究員。著書に『気づく 立ちあがる 育てる――日本の性教育史におけるクィアペダゴジー』(エイデル研究所、2022年)。『「日本に性教育はなかった」と言う前に―ブームとバッシングのあいだで考える』(柏書房、2023年)。
北山ひと美(きたやま・ひとみ)
和光小学校・和光幼稚園前校園長。一般社団法人“人間と性”教育研究協議会(性教協)代表幹事、性教協・乳幼児の性と性教育サークル代表。幼稚園、小学校の現場で、性教育のカリキュラムづくりと実践を重ねている。『保育ではじめる包括的性教育』(2025年、チャイルド本社)著。共著に『こどもせいきょういくはじめます』(2025年、KADOKAWA)、『あっ!そうなんだ!性と生』(2014年、エイデル研究所)、『乳幼児期の性教育ハンドブック』(2021年、かもがわ出版)など。『性ってなんだろう?』(2022年、新日本出版社)監修。NHK Eテレ「アイラブミー」監修。