陶芸家 加藤真美さん 大学の受験直前に倒れ、父の勧めで土いじり 苦しんでもそっとしておいてくれた両親に感謝

井上昇治 (2025年1月19日付 東京新聞朝刊)

(井上昇治撮影)

各界で活躍する著名人がご家族との思い出深いエピーソードを語るコーナーです。

教員の父の期待に応えようと

 父は小中学校の先生でした。幼いときに母親を亡くすなど苦労しましたが、もともと勉強が好きだったこともあって教員になったんです。母とは見合い結婚。私と3歳下の妹を含め、4人家族でした。

 父は男の子が欲しかったのかもしれません。幼い頃、私を考古学の発掘現場に連れて行ったりしましたから。将来は国公立大に進学させ、自分のような教師にしたかったんです。私も期待に応えようと、父の言うがままでした。

 ところが、高校3年の大学受験直前に私が倒れてしまったんです。その後も、めまいや平衡感覚を失う発作に悩まされ、なんとか京都の私大に入学したものの、単位がスムーズに取れる状況ではありませんでした。

 療養のため、愛知県内の実家に戻ったのが大学3年を終えた20代初め。このとき、父が私に行かせようと、同県常滑市の陶芸研究所の研修生に勝手に申し込んだんです。

小さい頃から工作が好きだった

 父としては、私が受験直前に倒れたから、教員になることを無理強いしすぎたと思ったのでしょう。ぶらぶら過ごすのは良くないし、土いじりがリハビリになると思ったらしくて。小さい頃から工作が好きだったから、手先を使う陶芸がいいと思ったのでしょう。私自身は内心、「えーっ、陶芸?」と思いましたが、その後、結局、大学はやめ、これが陶芸家になるきっかけになりました。

 30歳手前で覚悟もでき、両親が住む実家に工房を開きました。物置を改造し、外にガス窯を設置。両親は「体調が悪くても、自分のペースで一生できる仕事だからいい」と応援してくれました。当時、私自身は愛知と東京とで別居婚をしたんですが、結局、それぞれの道を進みました。

 実家に戻ってからは、1階に両親、2階に私が住んで、いわば“2世帯住宅”。父も母も陶芸についてあれこれ言うことはありません。バブル崩壊後の収入の落ち込みや、自分らしい表現ができずに苦しんだ時期など、いろいろなことがありましたが、両親は口出しせず、そっとしておいてくれました。いつも放っておいてくれた両親の存在が本当にありがたかったです。

シンガポールに連れて行きたい

 今、そんな両親にしてあげたいのはシンガポール旅行に連れていくこと。

 直言居士で人付き合いが下手だった父は、日本での教員生活に思うところもあったのか、私が中学生のとき、シンガポールの日本人学校の教員に応募しました。3年間、家族で過ごした多民族国家シンガポールでの生活は華やかで、父が輝いて見えました。

 今も自分の部屋に当時買った民芸品を飾るなど父がシンガポールの思い出を大切にしているのが分かります。50年近い年月が流れました。両親に今のシンガポールを見せてあげたい。目を細めて懐かしがる姿が目に浮かぶんです。

加藤真美(かとう・まみ)

 1963年、愛知県生まれ。陶芸家。同県東海市で作陶。84~86年に同県常滑市立陶芸研究所(現・とこなめ陶の森陶芸研究所)で学ぶ。2013年の長三賞陶芸展自由部門審査員特別賞(鯉江良二選)、19年の美濃陶芸大賞など国内外の公募展で受賞。24年のパラミタ陶芸大賞展(三重・パラミタミュージアム)に出品。