講談師 一龍斎貞花さん 電話美人の妻と半世紀 厳しいのは俺のことを思ってくれているから

有賀博幸 (2024年4月21日付 東京新聞朝刊)

母親の思い出を語った講談師の一龍斎貞花さん(五十嵐文人撮影)

出会ってすぐのスピード婚

 結婚して今年でちょうど50年になります。一緒になったのは講談界に入って二つ目の35歳の時、かみさんは27歳でした。日光の旅館の孫で、旅館の東京出張所に勤めていました。義母の知り合いに講談師の身内がいて、そのつてです。

 お互い当時としては遅い方。「これ逃したら、もうないぞ」みたいな気持ちだったかもしれません。第一印象? かわいかったですよ。結婚しようと心に決めてからは、地方へ泊まりがけの仕事に行くときでも、出発前に会い、帰ってきた夜にまた会ってと、本当に毎日会っていました。出会ってから4~5カ月のスピード婚でした。

 噺家(はなしか)のおかみさんにもいろんなタイプの方がいるでしょうが、うちは“電話美人”ですね。私は事務所に所属していないので、自宅に仕事の電話が入ります。講談のほか企業関係や安全、更生保護、健康福祉、野球…と講演依頼があります。かみさんはスケジュールを見ながら「はい、○○の件ですね」「その日で結構です」と、私抜きで決まります。中には先方が「先生お留守ですか」と電話を切ろうとすると、「何なの?」「それなら大丈夫よ」と。マネジャーみたい。依頼先からは「貞花さんのところは早く決まる」と喜ばれるようですが。

優しくないのはお互いさま

 私は愛知県の生まれで、1歳半で父を亡くし、母1人子1人で育ちました。22歳で上京し、製菓会社で販売員をしていましたが、子ども時分からの演芸好きが高じて、30歳を前に講談界に転じました。当時、脱サラして講談師になるなんてまれでね。年齢的に遅かったし、会社員時代、そこそこの給料をもらっていたので、師匠からは「よせ」って言われましたよ。

 母親は結婚の4年前に亡くなっていたので、かみさんは直接は知りません。新婚時分、私が「おふくろ、うなぎが好きだったんだ」と言うと覚えていて、以来、毎年10月の命日にはうなぎが出てきます。昨年、一昨年と女性の弟子2人の真打ち披露がありましたが、「紋付きで祝ってあげましょうよ」と、着物の算段をしたりと、弟子のことも大事にしてくれています。

 家の中では厳しいですよ。「余計なことを言わない」とか、「そんな格好で出ていかないで」とか口うるさく言われます。「こんちくしょう」と思うんですけど、注意されるっていうのは、俺のことを思ってくれているんだと。

 人生振り返ると、好きで飛び込んだ講談の世界で何とかおまんまいただけて、これまた好きな野球の話でテレビラジオに出演し、新聞雑誌に書かせてもらい、本も8冊出せて。それもこれもカバーしてくれた女房のおかげ。料理上手というのもうれしいことです。望むなら、もうちょっと優しく話してくれればねぇ。こっちも特別優しいわけじゃないし、お互いさまですけど。

一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)

 本名・朱宮(しゅみや)正喜。1939年、愛知県江南市生まれ。29歳で六代目一龍斎貞丈に入門、76年に真打ち昇進し、五代目一龍斎貞花を襲名。講談協会常任理事。講談師の傍ら長年保護司を務め、更生功労で2004年に「瀬戸山賞」を、15年に法務大臣賞を受賞。70年余の中日ドラゴンズファンで、OB会から永年ファン表彰を受けた。