俳優・シンガーソングライター 中川晃教さん 授賞式で止まらなかった涙 優しい祖母に晴れ姿を見せたかった

熊崎未奈 (2024年5月12日付 東京新聞朝刊)

家族の思い出について話す俳優の中川晃教さん=東京都墨田区で(稲岡悟撮影)

亡くなるまで2年半のふたり暮らし

 30代半ばの頃、母方の祖母と2人で暮らした時期がありました。祖父亡き後、祖母が1人で住んでいた東京の一軒家に僕が入ることになり、祖母が84歳で亡くなるまでの2年半、一緒に生活しました。

 子どもの頃は両親や兄、妹と暮らしていましたが、18歳でデビューして上京後は、ずっと一人暮らし。仕事でくたくたになって帰ってきても誰もいない。祖母と住むようになり、「おかえりー」という言葉が聞こえるようになって、すごくうれしかったです。

 僕は祖母のことを、おばあさんと呼んでました。夜、僕が帰ると「おなかは?」と聞いてくれる。僕は食べてきたとしても「ちょっと食べたい」と言って甘えてましたね。おばあさんは料理が得意で、ちゃちゃっと焼きそばやサラダを作ってくれました。公演中だったと思いますが、「今日あなた大変なんだから、これ食べて頑張りなさい」と朝から天ぷらを揚げてくれたこともありました。

 稽古場でお昼を食べる機会があったときには、お弁当を作ってくれました。おかずは厚焼き卵とサケとつくだ煮。ごはんの上にピンク色の桜でんぶがのっていて、子どもの頃以来の味にウキウキしたのを覚えています。僕のために買ってきてくれたのかなと、優しさと思いやりをかみしめながら、稽古場のベランダで食べましたね。

「ジャージー・ボーイズ」で演劇賞

 舞台やコンサートの新しい仕事が入ると、すごく喜んでくれて、一番に報告したい人でした。後に知ったんですが、おばあさんは近所の人や知人に「今度、孫が出るのよ」とチラシを渡したり、自慢したりしていたみたいです。僕のことを「若い恋人」と冗談めかして言ってました。

 おばあさんは女学校時代、学校帰りに銀座のダンスホールに通って、踊っていたそうです。芸能や歌が好きだったんですよね。それもあって、僕を応援してくれていたのかなと思います。

 おばあさんが亡くなった年、初演のミュージカル「ジャージー・ボーイズ」で主人公を演じ、いくつもの演劇賞をいただきました。僕にとって大きなターニングポイントでしたが、その姿を見せることはかないませんでした。生きていたら喜んでくれただろうなと思い、授賞式のときには涙が止まらなくなりました。

 2人で暮らした日々はとてもいい時間でした。だからこそ、家庭を築こうという思いが芽生えたし、今もその家に住んでいます。近所の人から「すごくお世話になった」と聞くことも多くて、祖父母が築き上げてきた「心の道」の上に自分がいるんだ、しっかりしなくちゃと思いますね。

 これからもミュージカルだけでなく、ジャンルを問わずどんな歌でも歌える自分を目指していきたい。そんな姿をおばあさんが見ててくれたらうれしいなと思います。

中川晃教(なかがわ・あきのり)

 1982年、仙台市出身。2001年に歌手デビュー曲で日本有線大賞新人賞。2016年、ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」で読売演劇大賞最優秀男優賞などに輝く。昨年、同舞台の出演者とコーラスグループ「JBB」を結成。今年6月からコンサートツアーに臨む。名古屋公演は6月3日、東京・八王子公演は6月5日、静岡・三島公演は6月7日。

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コメント

  • フジコ・ヘミングさんのピアノ演奏を聞いた以来の衝撃でした。 今や食事を取るがごとく彼が歌う「手紙」を聞いています。至福の時間ありがとう。
    のぶ。 女性 70代以上 
  • 中川さんの舞台を見に行ったのは、まさに亡くなられたおばあさまからの勧めでした。「孫がね」と楽しそうに話されていたのを懐かしく思い出します。 素敵な歌を舞台をきっとおばあさまも遠いところで楽しみに
    ジャジーおばさん 女性 60代