怪談家 稲川淳二さん「私は最低の親だが…」
認めるのが嫌だった次男の障害
次男の由輝(ゆうき)は5年前、26歳で亡くなりました。いい子でしたよ。優しい子でした。
頭の骨に変形がある先天性の重い病気でした。偉いのはね、親を恨んだり文句を言ったりするわけでもなく、いつもニコニコしていたことです。元気に生まれてきた人が自殺したり、人を殺したりする時代ですよ。障害のある人の生きる一日は、健常者の一日よりすごく大変なんです。でも息子はその日まで毎日、一生懸命生きたんです。そして私に、世の中にはいらない命はない、ということを教えてくれたんです。
彼が生まれた時、私は障害があるということを認めるのが嫌で、受け入れられませんでした。あの子をこの手にかけて殺してやろう、と思ったこともある人間です。なのにあいつは生後4カ月で、朝8時から夜8時までの手術に耐えた。手も足も針や管でつながれ、ちっちゃい体で息をして。一生懸命生きようとしている姿を見た時、すごく自分を責めました。おれはなんてやつだ、最低だと。
亡くなってからの方が忘れない
別居している女房から何の連絡もなく、住んでいる場所も知らなかったので、由輝には幼いころからほとんど会っていません。不思議なもので、亡くなってからの方が忘れません。毎日朝と帰宅後にお参りし、名前を必ず呼びます。こうやって、あいつの話をすると、あいつがそばにいてくれる気がします。
その日は、長男から亡くなった知らせを受け、病院の霊安室に駆けつけました。手を握ると、由輝が5つぐらいの時、病院の廊下を手をつないで歩いたことを思い出しました。あれ以来、手を握ってあげなかったな。そう思うと、たまらなかったです。
数カ月後、家の近所を長男と歩いていた時、「由輝が通っていた学校だ」と教えてくれました。そばにいたのに知らなかったんです。長男が「由輝ね、運動会で足速かったんだよ」と言うので、「うそだ。あいつ頭手術して、体に管も通っているし」と言ったら「一生懸命走るんだよ。ほかの子を抜いたよ」と。それで運動場をじっと見ていると、そこを走っている小学生の由輝が見えたんです。
さらに長男が「鉄棒も上手だったよ」と言うので、鉄棒をじっと見ていたら、小学生の由輝が鉄棒を握って、私の方を見て笑ったのが見えたんだ。ぐーんと回って逆上がりしたんだ。その瞬間、「おーい、そばにいて見てあげたかった。ほめてあげたかった。おまえは一生懸命生きたんだな」と思ってね。
親として何もしてやれず、最低の親なんですけど、息子は私の中に永遠に生きていて、命や人の思いについて教えてくれます。私はすごい宝をもらった、と思っています。
稲川淳二(いながわ・じゅんじ)
1947年、東京生まれ。タレントとして活躍。55歳からは「怪談家」としてライブを中心に活動している。
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