「高校生レストラン」を指導 村林新吾さん 料理の道で母に恩返し

河郷丈史 (2018年5月20日付 東京新聞朝刊)

両親との思い出を語る村林新吾さん(撮影 大橋脩人)

料理店の子に生まれて

 両親は三重県松阪市で「美舟(みふね)」という日本料理店を営んでいて、家族で店の2階に住んでいました。同じ建物に母が切り盛りするバーもあって、お客さんがたくさん入っていました。忘年会のシーズンになると、酔っぱらったおじさんが間違って2階に上がってきて、僕の隣で寝ていたり。良き時代でしょ。

 両親は朝から晩まで働いていました。特に母は忙しくて家族と夕食を食べることはほとんどなく、いつも冷めたものを食べていました。夜遅くまで働いているのに、朝になったら、ちゃんと僕らの弁当がつくってある。苦労を苦労と思わない人。「エビのてんぷら、おいしいよな」と僕が言うと、でっかいエビをボン、ボンと入れてくれました。

 店の後継ぎの話は、唐突でした。中学2年のとき、父が夕食時に「おまえ、料理好きか」と聞いてきたので、「大好きや」と答えた。すると、父は「この店、継いだらええで」と。これは一大事やと、感極まる思いでしたね。

 その父は僕が大学3年のときに脳出血で亡くなりました。大学を辞めて手伝おうと思いましたが、母からは大学を卒業して、専門学校で勉強するように言われ、僕は辻調理師専門学校に進みました。母は日本料理店を続けながら仕送りをしてくれて、僕は必死で勉強しました。

「すごいことをしたなあ」と涙

 就職活動が始まるころ、先生から辻調の教職員試験を受けないかと言われ、悩みました。店を継ぐことしか頭になかったけれど、母校の高校の剣道部で後輩らを教えたことがあり、指導の楽しさは知っていました。母に相談すると「かっこいい先生になれるんやったら、ええんちゃう」と。僕が辻調の教職員として本格的に働き始めたころ、母は店をやめました。

 地元からの誘いで三重県立相可(おうか)高校食物調理科の教諭になり、生徒たちが調理も接客も自分たちでする日本唯一の高校生レストラン「まごの店」の運営を始めました。従業員の生徒は70人もいて、僕は指導をしながら、売り上げや運営のことも考える。すごいプレッシャーです。自分で店をやるよりも、もっと大きなこと。今の自分があるのは母のおかげです。

 恩返しができたのは、2016年の伊勢志摩サミット。生徒たちと一緒に、各国首脳の配偶者の昼食会向けに料理を提供しました。母は「すごいことをしたなあ」と、涙ぐんで喜びました。母にとって、生徒イコール僕やもんで。父も生きていたら、喜んでくれたと思います。

 両親の店を継ぐことはできませんでしたが、同じ料理の道を走ってきて、「まごの店」という店をやらせていただいている。だからやっぱり、日本一の店にせなあかんな、と思います。

むらばやし・しんご 

 1960年、三重県松阪市生まれ。大学卒業後、「料理界の東大」と言われる辻調理師専門学校(大阪市阿倍野区)へ入学。同校の教職員を10年間務め、94年に三重県立相可高校(三重県多気町)食物調理科に赴任。2002年、地元の多気町などの協力を得て、同校の生徒が運営する「まごの店」をスタート。この取り組みは、連続テレビドラマ「高校生レストラン」(11年)のモデルとなった。