落語家 登龍亭幸福さん 談志師匠から破門、小福師匠に弟子入り、ファンになった女性と結婚

中山敬三 (2021年4月25日付 東京新聞朝刊)

(黒田淳一撮影)

大学院を辞めてドクター中松さんの元へ

 物理、数学が得意だったので大学は理学部に進みました。大学院になると、テキストの大半が苦手な英語になり、辞める決心をしました。発明家のドクター中松さんが、ラジオで社員を募集していると話しているのを聞き、東京のドクター中松総合研究所(当時)に入社。特許出願のお手伝いをしていました。

 そんな時、2歳上の次兄に誘われて落語会へ行きました。そこに出演していた立川談志師匠がかっこよくて、落語うんぬんより、談志その人のファンになり、会社を辞めて彼の弟子になろうと決めました。

落語家になったことを、父は喜んでいた

 父は岐阜県で化学繊維のリサイクル会社を経営する傍ら、地元の少年野球の世話役を務めており、(中日ドラゴンズ元監督の)高木守道さんとも親交がありました。私が大学を辞めた時も、談志師匠に入門した時も、父は小言めいたことは一切言いませんでした。むしろ落語家になったことを喜んでいるふしがありました。コロナ禍以前は、私が出演している名古屋の大須演芸場に月1回必ず足を運んでくれていました。母は演芸場には来ませんが、入門時に師匠と親とが面談する必要があった際は「私が行く」と言ってくれました。

 苦しかったのは、2002年に談志師匠から破門を言い渡された直後です。父の会社の創立50周年記念の催しに師匠が出演することがすでに決まっていて、師匠の事務所と会社との間に破門された自分が入り交渉役を務めるのは本当につらかった。ただ、後になって、談志師匠が大須の席亭や雷門小福師匠に「よろしく頼む」旨の手紙を出してくれたことで、胸のつかえが下りました。

師匠の死 インド旅行中の私に、兄が…

 小福師匠に弟子入りができ、名古屋を中心に活動するようになったことは、自分にとってとても良かったと思っています。東京にいた時よりもたくさん寄席に出演できるようになりましたし、寄席に来て私のファンになった女性と結婚することができました。妻は何でも話せる最高の相談相手です。

 2012年4月、小福師匠が亡くなった時、私はインド・ムンバイ郊外を旅行中でした。(兄弟子の)獅篭(しかご)兄からは「急いで帰ってこなくていい」と言ってもらいましたが、次兄が「絶対すぐに戻ってこい」と言うんです。「『師匠に拾ってもらった』と喜んでいたのに何なんだ」と。

 飛行機を乗り継いで、ようやく出棺に間に合いました。ひげが伸び放題で、服も旅装のままでしたが、師匠の娘さんたちは「よく帰ってきてくれた」と喜んでくれました。当時は、兄の強い言葉に腹が立ちましたが、今となっては感謝しかありません。

登龍亭幸福(とうりゅうてい・こうふく)

1972年、岐阜県各務原市生まれ。1998年、立川談志に入門。2002年、前座全員破門騒動のあおりで破門となる。翌年に雷門小福門下となり、雷門幸福と改名。2020年、百数十年ぶりに亭号「登龍亭」を復活させた。十八番のネタは「子別れ」、新作「名古屋弁指南」。