テレビプロデューサーでプロレスラーの鈴木健三さん 父の「逃げるな」が人生の可能性を広げてくれた

神谷慶 (2023年10月8日付 東京新聞朝刊)

父親のことを語る、テレビプロデューサーでプロレスラーの鈴木健三さん(川上智世撮影)

不動産会社の3代目 丁寧な仕事ぶり

 愛知県碧南市で暮らす父は、土地売買や建売住宅の建築・販売を手がける不動産会社の3代目。私は長男で、姉と妹がいます。

 父はきちょうめんで、手帳に日々の予定をきれいな字でびっちり書き込んでいました。背広姿で顧客や現場を回り、図面を引いたり広告の図案も描いたり。丁寧な仕事ぶりを見て、「自分にはできそうもないな」と思っていました。サッカー、野球、塾…。私がやりたいと言ったことは全てやらせてくれました。

 私は身長191センチ。小学校を卒業する頃には180センチを超え、目立つからコンプレックスでした。でも、刈谷北高校でラグビーと出合い、高校日本代表にも選ばれ、親に感謝するようになりました。

 憧れて入った明大ラグビー部では、新人合宿から立て続けにアキレス腱(けん)を2回断裂。「もうラグビーは厳しい」と医師に言われ、絶望しました。

アキレス腱を断裂 ラグビーはもう…

 半年近くの入院中、見舞いに来た母は「ラグビーだけが人生じゃないんだから」と優しく励ましてくれました。父も「帰ってこい」と言ってくれるかと思ったら、手紙と電話で「逃げるな。死んでも部活に戻れ」と。驚きました。

 実はその1年前、ラグビーで他大へ推薦入学したものの1週間で退学したんです。「明大に入り直してラグビーをやりたい」と言った時、父はすぐに認めてくれた。その父も、ここだけは耐えさせなくてはだめだと思ったのでしょう。「また逃げたら、理想の人生から懸け離れるぞ」という親心だと直感しました。

 突き放され、腹が据わりました。足が痛くて速く走れず、プレーも180度変わった。体を張ってタックルし、ボールを持ったら気絶覚悟で頭から突っ込むように。チームの方向性に合致し、2年時からレギュラーになれました。

プロレスでも常に「第二の人生」意識

 大学卒業後はテレビ局へ。でも、1年後にはスカウトされてプロレスの世界へ飛び込んだ。報告を受けた父は驚いたと思いますし、ずっと続けられる仕事ではないと冷静に見ていたようです。先々のことも現実的に考えておくよう私に諭し、私も頭のどこかで、常に第二の人生を意識していました。そのおかげで会社員としての今があります。

 76歳の父は今春、不動産会社の看板を下ろしました。長男の私が4代目として継げたら良かったのかな、という思いは今でもあります。でも私は、プロレスとラグビーを最もよく知るテレビプロデューサーとして、それぞれの魅力を伝えられる番組を発信していきたいと考えています。

 私は千葉県で暮らし、小学6年生の息子を育てています。どんな挑戦も許し、人生の可能性を広げてくれた父ほどにはできないかもしれませんが、息子が自らの可能性を育て、何かに没頭できるよう応援してあげたい。父が私に、そうさせてくれたからです。

鈴木健三(すずき・けんぞう)

 1974年、愛知県碧南市生まれ。明治大ラグビー部で2年連続の大学日本一を達成し、東海テレビ放送に就職後、99年に新日本プロレス入団。2017年に共同テレビジョンに入社し、難病と闘う故アントニオ猪木さんに2年近く密着したドキュメンタリーが話題に。今夏には、2025年の国連設立80周年に向けて長崎で開かれた平和祈念イベントもプロデュースした。