芸人・島田秀平さん 自分は愛されていたと力が湧く 父が遺したノートの最後のページ

神谷慶 (2023年8月6日付 東京新聞朝刊)
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父親について語るタレントの島田秀平さん(松崎浩一撮影)

カット・家族のこと話そう

第1志望の高校に入れなかった僕に

 父は長野市役所の職員でした。雨が降ると川の氾濫や土砂崩れが起きていないか、夜通しの点検に出ていくこともよくありました。1998年に開かれた長野冬季五輪の組織委員会へも出向しました。

 子煩悩で、教育熱心で、読書好き。夕食の時は2人の姉と僕にニュースを解説してくれました。僕が第1志望の高校に入れず、往復3時間の私立に進むことになって落ち込んだ時、父は「良かったな。3年間、電車でたくさん本が読めるな」と。その言葉で心が楽になり、実際に多くの本を読めたし、学校に地元の友達がいない分、自分から話しかけるようになりました。

 父を思うと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が浮かびます。僕の中学の卒業式で、PTA会長だった父が壇上で朗読したこともありました。父は「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」という感じで、休日に田畑で育てたリンゴや桃、野菜をほとんど人にあげてしまうんです。

末期がん…入院前「おんぶしてみろよ」

 僕が高校3年になった春、父は「ちょっと胃が痛いんだ」と病院に行き、末期がんと分かりました。入院前日の夕食の後、和室から父の呼ぶ声がしました。入ると、父が腕組みしてあぐらをかき「俺のこと、おんぶしてみろよ」と。恥ずかしいから嫌だけど「できるよ」とだけ答え、おんぶして畳の上を何周か走りました。軽々と背負える力があることを示そうと必死に。

 「この家に、男はおまえ1人になる。家族のことを頼んだぞ」というメッセージだと感じました。入院から4カ月後、父は亡くなりました。

 高校卒業後に上京してコンビで漫才を始めました。「M-1グランプリ」の決勝に進む目標がかなわず、30歳でいったん解散。実家に帰ろうかと途方に暮れた時、母から「父のノートが蔵から見つかった」と連絡がありました。

「最愛の秀平」 ノートに残る父の愛

 3冊のノートの表紙にはそれぞれ、わが子の名前が書いてありました。開くと、「幼稚園へ通うためにかさを買う 模様は仮面ライダーでなければと だだをこねる」といった成長の記録のほか、働くとはどういうことかという父の考えが記されていました。「ハタとは他人やまわりの人という意味で、その人たちを楽にする これをハタラクという」という文章があって、お笑い1本の道に挫折し、手相鑑定も仕事に加えようとしていた当時の僕を肯定してくれたように感じました。

 最後のページには、入院前日のあの夜のことが書いてありました。「昨夜、背負ってお座敷を3周 更に向上心を求む よい息子よ。最愛の秀平」。自分は愛されていた、そして今も見守られていると力が湧きました。

 ノートの大半はまだ白紙のまま。僕にも今、4歳の息子がいます。自分の人生経験の中から、すてきなことを書いて託せたらと考えていますが、父のようにはまだまだ、書けそうにありません。

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島田秀平さんの父が残したノートの、最後に書かれたページ

島田秀平(しまだ・しゅうへい)

 1977年、長野市生まれ。96年、幼なじみの赤岡典明さんとお笑いコンビ「号泣」でデビュー。2002年に仕事で知り合った占い師の「原宿の母」に弟子入りし、手相鑑定の手ほどきを受ける。手相占い関連の書籍は累計100万部以上。都市伝説や怪談語りの名手としても知られる。「号泣」は08年に解散し、20年に再結成した。

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