助産師 神谷整子さん 母の姿を見て温めた自立への思い 「1%の風景」を支えて
※妊娠中・子育て中の女性と赤ちゃんを対象とした映画「1%の風景」の特別試写会が、11月1日に「みづき助産院」で行われます。申込先など、詳しくは記事の最後で紹介しています。
父の稼ぎに頼らなくても
―助産師を目指した背景をお聞かせください。
母も助産師でした。大工だった明治生まれの父は、お酒が入らなければ穏やかな人でしたが、とにかく「女が教育を受けると、ろくなことはない」が持論で、2人姉妹の長女だった私は、「おまえは結婚しなくていいから墓を守れ」と言われていました。だからこそ、よって立つ仕事があり、何があっても、父の稼ぎに頼らなくても生きていける母のあり方を見て、「女性も自立しないとどうにもならないな」という思いが小学生の頃からありました。
普通はあまり接することのない助産師の仕事が、日常にあったのも大きいです。お産を終えて疲れて帰宅したはずなのに、「男の子だったよ」「かわいかったよ」と満ち足りた顔で話してくれる母の姿を間近に見て育ちました。
働き始めたばかりで妊娠
―神谷さんご自身も助産師を続けながら、妊娠・出産を経験されました。
私も24歳で助産師になり、勤め先の大学病院で2男1女を産みました。第1子の長男の妊娠が分かったのは、働き始めてまだ1年たつかどうかという時期。当時は結婚・出産する助産師は、周りには誰ひとりいませんでした。私は結婚もしていなかったので、妊娠を師長に告げると目を丸くされました。「結婚は?」とも聞かれませんでした。聞けないくらいの衝撃だったのだと思います。
高校の同級生だった夫とは、今で言う事実婚の状態でした。父が結婚に大反対し、長男だった夫が平身低頭して、私の名字を名乗るからと頼んでも父は首を縦に振らなかったので、私は家を出ていたんです。父は産むことにも、もちろん反対でした。
「しょうがない、シングルマザーでも育てていこう」と私は思っていましたし、夫は夫で、覚悟を持って育てようと「自分の籍に入れられるか」と役所に聞きに行ったようです。未婚では無理だと言われたそうですが。
甘かった…自身が早産に
―出産直前まで、夜勤や準夜勤など交代制の勤務に入っていたのですか?
はい。妊娠前と同じローテーションで勤務を続けているうちに、産休に入る2日前の朝に陣痛が始まってしまって。まだ33週4日。私は「まだ生まれるはずがない」と言い張ったけれど、母に「ここで産んで私が取り上げてもいいけど、まだ小さいわよ。病院に行った方がいいと思う」と言われ、病院に。その日のうちに約2000グラムで長男を出産しました。婚姻届もこの日に出しました。
実は、2人目も31週4日での早産だったんです。長男を保育園に送るために自転車で坂を上がって…。まさか2人続けて早産になるとは思いませんでした。若気の至りですし、この助産師という仕事をしていたがゆえに「自分はお産のことを分かっている」と甘く見ていたのかもしれません。
でも、子どもが無事に生まれてきてくれたのは、たまたまです。もし何かあったら、この仕事だって続けられなかったかもしれない。だからこそ、自分のところで出産する妊婦さんには「後でどんなに悔やんでも取り戻せないですよ」と、体をいたわるよう念を押してきました。
自分がどうありたいか
―3人のお子さんを育てながら、どのようにして助産師を続けてこられたのですか?
助産師を続けたかったので、その時々の子育てのステージに合わせ、大学病院から産婦人科医院、助産院と移り、出張開業、地域の母子保健業務…とさまざまに形を変えながら続けてきました。
大学病院勤務の時は、厳しい現場だったので必死でした。朝、保育園に送っていったばかりの子どもが熱を出して園から電話がかかってきても、迎えに行ってタクシーで母に預けて、朝8時の申し送りの時には勤務に戻っていないといけないわけだから。「保育園くらい連れていってくれたっていいじゃない」と、夫には相当当たりました。
でも夫は、「誰も働いてくれって頼んでないよ。好きでやってるんだよね」と言うんです。そう言われて、私も「たしかにそうだ。私は頼まれて仕事をしているわけではない。だとしたら金輪際、頼むものか」と。まあ、本当に「こんちくしょう」と思いましたが、やれるだけやろうと。母も、あんなに反対していた父も、私が夜勤の時に末っ子を預かり、支えてくれました。
結婚も出産も仕事も、最終的には自分がどうありたいか。「結婚を認めない」「育てられないからおろせ」「子どもが生まれたら辞めろ」と周りから言われたとしても、どうしたいかを決めるのは自分。それが一番大事だと思います。
取材を終えて
働き始めて間もない時期に妊娠したこと、その時に未婚だったこと。妊娠前と変わらない働き方をして、予想外の早産になったこと。神谷さんの口から語られるジェットコースターのような半生は、自分が勝手に抱いていた「1951年生まれの助産師さん」のイメージを超えることばかりでした。「だって、しょうがないじゃない」「周りを気にし始めたら、物事が全然違う方向に行っちゃうのよ」と軽やかに振り返る神谷さんに圧倒されると同時に、「こんな人が妊娠・出産期に隣にいてくれるとしたら、なんと心強いことだろう」と、神谷さんのもとで出産した女性たちをうらやましく感じました。
大学病院で働いている時に、「退院していくお母さんたちは、地域で元気に子育てができているかしら」とずっと気にしていたという神谷さん。その思いが原点にあり、地域で子どもを産み育てる女性たちの息の長い支援につながったそうです。
実は私自身も、神谷さんの助産院に助けられたひとりです。出産直前に別居婚だった夫の住む東京に転勤。知り合いもいない中、第1子を産みました。産後4カ月のころだったでしょうか、赤ちゃんの飲んでくれる量より生産される母乳の方が多い、という授乳トラブルでおっぱいがカチカチになってしまいました。コンクリートかと思うくらい硬くなった胸の痛みに耐えられず、必死でケアをしてくれるところを探して電話をかけたのが「みづき助産院」でした。神谷さんではなく、同僚の助産師さんだったと思いますが、魔法のような手つきで母乳を流し出してもらい、「困ったら、またいつでも来てくださいね」と言われて、心も体もやわらかく軽くなって帰った春の日を覚えています。
周産期の女性には、喜びだけでなく、不安と迷い、焦りや葛藤、後悔など、さまざまな感情が押し寄せます。パートナーが協力的かどうかなど、家族のありようによっては、気持ちが大きく揺れることもあります。思うように進む出産なんて多くはありません。これから赤ちゃんを迎え、右も左も分からない中で子育てが始まり、仕事を持っている人の場合は復職も視野に入れなければいけない。そんな女性たちの不安定な時期に、ままならない出産を経験し、もがきながら仕事を続けてきた神谷さんが、今もずっと伴走し続けてくれているのだと思います。(今川綾音)
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神谷整子(かみや・せいこ)
1951年、岩手県生まれ。1975年に東京大学医学部付属助産婦学校を卒業後、東大病院産婦人科や八千代助産院などに勤務。1986年、出張開業助産師となり地域母子保健業務に関わる。2000年、東京・北区に「みづき助産院」を開き、入院助産・出張助産を担うとともに後進育成に力を注いできた。2021年にお産の取り扱いを終了し、現在は、産後ケアなどを主に行っている。助産所や自宅で出産する女性と神谷さんら助産師の姿を追ったドキュメンタリー映画「1%の風景」(吉田夕日監督)は、11月11日からポレポレ東中野など全国で順次公開。11月1日には、みづき助産院での特別試写会も予定されている。
特別試写会のお知らせ
妊娠中・子育て中の女性と赤ちゃん(生後5カ月まで)を対象とした「母と子の助産所試写会」が、11月1日(水)にドキュメンタリー映画「1%の風景」の舞台である東京都北区の「みづき助産院」で開かれます。上映後には院長の神谷整子さんと、みづき助産院で出産された女性、吉田夕日監督によるトークイベントがあります。参加無料。午前午後の各回とも定員10~15人。詳細と申し込み方法は、映画の公式サイトで案内しています。10月23日(月)正午まで受け付けています。
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