新学期 生きるのがつらい君へ〈考える広場〉

大森雅弥、出田阿生、越智俊至 (2018年9月1日付 東京新聞朝刊)

イラスト・伊藤潤

 長かった夏休みが終わり、もう新学期。休み明けのこの時期は、不登校になる子どもが増え、中には死を選んでしまう例もあるなど、子どもにとって危機的な「地獄の季節」。生きづらさを抱える子どもたちに、同じような体験を持つ人たちがメッセージを送る。

「解」なんていらない お笑い芸人 山田ルイ53世さん 

 今、つらい思いをしている君たちにメッセージをと言われ、正直困っています。引きこもっていた時の自分を考えると、君たちの心境や状況を劇的に変えるような、そんな魔法の言葉を僕は持ち合わせていません。 

 そのくせ、こんな取材を受けるのは、3年前に『ヒキコモリ漂流記』という本を書いたから。中学2年の時、登校中にうんこを漏らしたというしょうもないキッカケで、夏休み明けから引きこもりとなりました。勉強で良い成績を取り、学校で褒められる「優等生の自分」を演じることだけが大事な人間だったので、糸が切れて学校へ行かなくなると、僕にはもう何も残っていませんでした。6年間の引きこもりで、世の中のいろんな出来事と関係ない人になった。

 この本を読んだら引きこもりの子がそこから抜け出すことができるなんて思っていません。引きこもる手前であれば、「こんな、めんどくさいことになるのか」と思い直す人もいるかもしれない…それくらいです。

 「引きこもった6年間があったから、今の山田さんがあるんですよね」みたいなことを聞かれるのも困ります。そういう美談としての着地に違和感を覚えてしまう。だって、僕はあの6年間を本当に無駄だったと思っている。あの時期にいろいろ子どもらしいことを経験しておいた方が、人生が豊かになったやろなと後悔している。

 もちろん、これはあくまでも僕自身に限っての話で、「みんなもそう思ってくれ」ということではありません。自分の体験を簡単に一般化し、押し付けるのは気持ちが悪い。一つ君たちに言えることがあるとすれば、引きこもることは生き方としては下手かもしれないし、失敗かもしれない。けど、悪ではないし、罪でもないということ。

 引きこもりが自分の糧になったと言う人もいます。人生の全てに何かしらの意味があって、あの期間も無駄な時間じゃなかったと。それはそれでいいけど、「結局、意味がないと、生きてはだめってこと?」とも思う。

 無駄や後悔を許さず、意味や意義を求める生き方って、けっこうしんどい。何にでも(生き)甲斐、いや「解」を求めないでほしい。そんなものがなくても生きられるし、生きている人はいっぱいいますよ。シャキシャキ生きるんではなくて、しんなりと生きている。

山田ルイ53世(やまだ・るい・ごじゅうさんせい)

 1975年、兵庫県生まれ。1999年に「髭男爵」結成。著書に『ヒキコモリ漂流記』(マガジンハウス。「完全版」も角川文庫から販売中)、『一発屋芸人列伝』。

 

不登校も命守る手段 高校生俳人 小林凜さん

 僕の小・中学校時代は、不条理と屈辱に満ちていました。生まれた時に944グラムの超低体重児だった僕は成長も遅く、周囲のおもちゃにされ、命の危険がある暴力も受けました。教師は加害者の味方をして、逆にいじめに加担した。小学5年で不登校の道を選びました。

 いじめから脱出しようと入学した私立中学でも、また暴力が待っていました。市内の公立中学校に転校した後も状況は悪化し、再び家庭学習を選びました。世の中には僕を含めて「どこへ行ってもやられるダメ人間」と言われる生徒がいますが、ダメなのはいじめをとがめるどころか隠蔽(いんぺい)して助長し、「弱者」を「ダメ人間」扱いする教師と、それを容認する社会です。

 壮絶ないじめの日々を生き抜けたのは、5歳から始めた俳句があったから。自然や心の中を詠む。「アンネの日記」のような「想(おも)いの具現化」でした。母や祖父母、理解ある一部の先生、自分を取り囲む生き物たちの存在が僕を支えてくれました。

 少数意見を排除する。そんな同調圧力に満ちた学校では、教師も生徒もロボットの群れに見えました。今は自分に合った高校に進学し、初めて学校の中で、ロボットじゃない「人間」に出会えた。感受性や想像力、知的好奇心を刺激され、毎日が楽しいです。インフルエンザ以外では一日も休んでいません。

 先日、テストの時間が余った時に、答案用紙の裏に「生きるとは」という詩を書きました。

 <生きるとはなにか 生きるとは「抗(あらが)う」ことである 必ず訪れる死に、理不尽な宿命に、抗うからこそ生きていける(中略)できるだけ 腐った社会、壊せ そして作り変えろ 万人が生きやすいよう 理不尽な宿命は利用しろ 転落の危機をチャンスに変えろ 抗うこととは 思惑通りにならないことだ だから 来るべき寿命が訪れるまで 抗え、壊せ、利用しろ 生きるために 生き抜くために>

 教師にいじめを訴えても無視され、命を絶つ子どもは後を絶ちません。7月に出版した新刊『生きる 俳句がうまれる時』には、苦境にあっても「永遠にそのままではない」というメッセージを込めました。不登校は決して恥ずべきことではなく、命を守る正当防衛です。苦しむ子どもたちに、「待て、しかして希望せよ」(『モンテ・クリスト伯』)という言葉を贈りたいです。

小林凛(こばやし・りん)

 2001年、大阪府生まれ。11歳で『ランドセル俳人の五・七・五~いじめられ行きたし行けぬ春の雨』を出版し、注目を集める。著書に『ランドセル俳人からの「卒業」』など。

 

校外に世界を持とう 弁護士 菅野朋子さん

 いま学校でいじめに遭っている人は、自分がいじめられていることや、それが原因で学校に行けなくなったことを「恥ずかしい」と感じているかもしれません。かつて私もそう思っていました。

 いじめられている自分がおかしいんじゃないか、性格が悪いからじゃないか。そんな自分は恥ずかしい。皆は普通に行けている学校に自分は行けない。当たり前のことができないのは恥ずかしい。でも、そうじゃないんです。それは絶対に恥ずかしいことではないから、誰かに相談してみてください。

 相談できる人が周りにいないのなら、電話で相談できる窓口があります。まずは第三者に話してみるのもいいかもしれません。電話が無理なら会員制交流サイト(SNS)でも相談できます。話すだけでは解決しないかもしれませんが、精神的にちょっと楽になります。電話やSNSで相談し、次は周りの人に話してみてはどうでしょうか。

 私は中学3年の終わりごろから皆に無視されるようになりました。エスカレーター式の高校に進学してもいじめは続き、高2になると、ほとんど学校に行けなくなりました。朝起きられない。行きたい気持ちはあるのに行けない。毎日、葛藤の中で闘っていました。うつと摂食障害が進み、もう行くのをやめようと母が言ったとき、悔しかったけど、少しほっとしました。

 1年遅れて神戸の高校に転入しました。いじめは全くありませんでした。そこで初めて気付いたんです。いじめられていたのは自分がおかしかったからじゃないんだと。

 子どもにとっては学校が世界のすべてです。そこでいじめに遭うと、人格を全否定されたような気になります。でも本当は学校は広い世界の中の小さなコミュニティーにすぎません。そこで何かあっても全世界から否定されたわけではない。自分に合った場所が必ずあります。趣味でも習い事でも何でもいいんですが、学校以外の世界を持てればいいなと思います。

 いじめの本質は異質の排除です。団体生活がある限り、いじめはなくなりません。いかに少なく、小さくとどめるか。大人の責任ですが、私は傍観している子どもたちにも期待します。いじめを見たら勇気を出して行動してほしい。そういう人間になってほしいと願います。

菅野朋子(かんの・ともこ)

 1970年、東京都生まれ。立教大社会学部卒。東京大法科大学院修了。大学院在学中の2007年、旧司法試験に合格。結婚、出産、離婚を経て弁護士に。東京弁護士会所属。

新学期と子どもたちの危機

 文部科学省が2014年に発表した「不登校に関する実態調査」によると、不登校の子どもたちが休み始めた時期は「7~9月」が最も多く、28.4%を占めた。また、内閣府の15年版自殺対策白書は「若年層の自殺をめぐる状況」を分析。18歳以下の自殺者について、過去約40年の日別自殺者数を調べたところ、夏休み明けとなることが多い「9月1日」が最多であることが分かった。