「不登校新聞」代表・石井志昂さん 20万円の教材を捨てた母…一緒に学校を”脱いだ”
あの時、違う言葉だったら
中学2年の冬、初めて母に「学校に行きたくない」と言って号泣しました。
教育熱心な家庭ではなかったんですが、塾がたまたまスパルタで、中学受験をしました。進学校を目指したが落ちた。公立中に進んだけど「自分は受験に失敗した」と挫折感が染み付いていました。加えて、厳しい校則や反りが合わない先生、誰かが順にいじめられる教室…。情緒不安定になり、電車の踏切の音が聞こえると、呼ばれているような希死念慮(死にたいと願う気持ち)がありました。
母に発した自分の言葉に驚きました。学校は本当につらかったんだと、自ら気付かされたからです。母は「分かった」と受け入れてくれ、そのひと言で救われた。あの時違う言葉だったら、自分がどうなっていたか分かりません。
勉強ができない状況だった
学校を休んで、最初は解放感がありましたが、次第に不安や焦りが芽生えてきた。母は学校に行けとは言わなかったけど、「なんで勉強しないの?」と言うことはあった。
ただ、私にとって二つ良いことがありました。一つは、たまたま読んだ本で、フリースクールや学校に行かない子がいることを知っていた。その情報が生きる希望になり、すぐに通うことにしました。
もう一つは、「捨てた」ことです。休んですぐ「家庭でもいろんな勉強ができる」と、20万円の学習教材を買いました。でも、学校でついた傷を癒やすには時間がかかり、勉強どころか何もできない状況。家の真ん中にずっとあったんですが、半年ほどで母が捨ててくれた。それから、家の中が少し柔らかい雰囲気になりました。「勉強させなくてもいい」と気付いてくれたのだと思います。この時、一緒に学校を「脱いだ」。前向きになれました。
父は説教せず、選択を尊重
父はずっと、説教がましいことは何も言わなかった。すごく悩んだはずですが、私の選択をいつも尊重してくれました。母は一緒に苦しんでくれた。フリースクールに通った6年間、いろんな話をしました。「学校って何で通わなきゃいけないのかな?」「小中学校にも通信制があればいいのに」「予備校は先生が選べるのに、なんで学校は選べないんだろう」。2人で話した時間で、自分の中で練られるものがありました。
その頃、ボランティアで不登校新聞に関わり、専門家や不登校経験者のインタビューをしました。その縁で就職。今につながっています。
不登校の子の親は大変です。自分のせいだと責め、孤立する人も多い。母はフリースクールのスタッフに相談したり、同じ立場の親とつながったりして焦りが消えたのだと思います。不登校になったころは、勉強を思い出す家に居場所はなかった。でも就職する時には両親のもとは安心できる基地になっていました。
石井志昂(いしい・しこう)
1982年、東京都生まれ。中学2年の時から不登校に。フリースクールへ通い、19歳で「全国不登校新聞社」に就職。2006~2022年編集長。2020年から代表理事。不登校の子どもやその親など約400人を取材。著書に「『学校に行きたくない』と子どもが言ったとき親ができること」(ポプラ新書)など。