歌手・俳優 森崎ウィンさん おばあちゃんは涙を見せずに「日本で頑張りなさい」と…
ミャンマー語で「明るい」 祖母が命名
10歳まで、ミャンマーのヤンゴンで母方のおばあちゃんと2人暮らしでした。「ウィン」はミャンマー語で「明るい」という意味で、おばあちゃんが付けてくれました。
両親とも日本など海外で働いていて、母はぼくを産んですぐ日本に戻りました。当時、ぼくがミャンマーで比較的豊かな暮らしができたのは、両親が日本で頑張って働き、仕送りをしてくれたからです。ただ両親が家に戻ってくるのは、年に1回あるかないか。普段は電話で話して、たまに日本からおもちゃを送ってくれる存在でした。
英語教室を開き、慕われる「大先生」
おばあちゃんは若いころ米国や日本で暮らしたことがあり、当時珍しかった英語教室を自宅で開いていました。地元では結構有名で、多くの大人が通っていました。社交的で、みんなから慕われているおばあちゃんは、ぼくの自慢。ぼくも生徒の皆さんに「あの大先生の孫だ」と、かわいがられて育ちました。
普段は優しいおばあちゃんですが、ぼくが宿題をしない時など怒ると怖かったです。英語教室では、時にマドンナなどを歌いながら楽しく教えていて、ぼくが英語を話せるようになったのも、こうした環境のおかげだと思います。
10歳の時、日本で弟を妊娠した母が出産のため一時帰国。ミャンマーの治安のことも考えてか、母は「日本で一緒に暮らそう」と言いました。
少し変わった家族かもしれないけれど
最初、ぼくは「イヤだ。おばあちゃんと一緒にいたい」と言ったと思います。親しい人たちと別れ、知らない国に行く不安も大きかった。おばあちゃんは「日本はすごくいいところだし、楽しいよ。向こうで頑張りなさい」と言い、ぼくの前では一切涙は見せませんでした。
後で聞くと、ぼくがいなくなって心にぽっかりと穴があいたようになり、立ち直るまで相当時間がかかったそうです。3カ月ぐらい仏教の修行のようなことをして、心を静めたそうです。
東京で両親、弟との生活が始まりました。母は信念が強くて、まっすぐな性格。父は聞き上手で優しいです。最初、ぼくは日本語が分からず、小学校でいじめられたこともありましたが、徐々に友達もできて芸能界の道へ。おばあちゃんも、ぼくを自慢の孫ということで喜んでくれています。
数年前、少し体調を崩したおばあちゃんのため、母だけミャンマーに帰国しました。政情不安などもあり、よく2人に電話しています。少し変わった家族かもしれません。でも、この家族に生まれた意味はあると思うし、この家族だからこそ今のぼくがいる、と強く感じています。
森崎ウィン(もりさき・うぃん)
1990年、ミャンマー生まれ。「森崎」は芸名。中学2年でスカウトされ、芸能活動を開始。2018年公開のスティーブン・スピルバーグ監督の映画「レディ・プレイヤー1」でハリウッドデビュー。20年、映画「蜜蜂と遠雷」で第43回日本アカデミー賞新人俳優賞。8月下旬~9月下旬、東京、大阪で開催されるブロードウェーミュージカル「ピピン」に主演。
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