中日ドラゴンズ投手 松木平優太さん 夢は育ててくれた祖母と一緒に暮らすこと 活躍すればきっと父にも届く

佐橋大 (2024年10月20日付 東京新聞朝刊)

祖母との思い出を語る中日ドラゴンズの松木平優太選手(高岡辰伍撮影)

父は不在、優しい母は小2で亡くなり

 物心ついたころには、大阪の母の実家で、母と一つ上の姉、祖父母と暮らしていました。両親は僕が2歳のときに離婚したと聞きました。

 父はインドネシア人。今、どこにいるのか分からないです。母はすごく優しい人。でも、僕が小学2年生の夏休みに、病気で亡くなりました。すごくつらかったです。母のことは一度、夢に見ました。一緒にご飯を食べている夢。現実かなと思ったら、目が覚めて、誰もいない。自然と涙が出ました。

 それからは、おじいちゃんとおばあちゃんに支えられて大きくなりました。2人とも礼儀に厳しい人でした。おじいちゃんはトレーニングが好きで、ランニングにも付き合ってくれました。でも、僕が高校2年生の夏に交通事故で亡くなってしまって。そのうちに、おばあちゃんも体が弱っていって、僕が高校生のうちに、おばさんに引き取られ、今は千葉県の老人ホームにいます。(東西に分かれている)2軍は関東遠征がないので、オフにしか会えなかったんですけど、1軍に上がってからは関東遠征のときに、ちょくちょく会いに行っています。

 初勝利したときは、すぐおばあちゃんに会いに行き、ウイニングボールを渡して、普段言えない感謝の気持ちを伝えました。「小さいときから育ててくれてありがとう。いっぱい迷惑をかけてごめんね。これからもっと活躍して、おばあちゃんを楽にできるように頑張るね」と伝えたら、「そんなこと、言えるようになったんや」と言って泣きながら喜んでくれました。施設に入ったときから、どうしたら一緒に暮らせるかを考えています。そのためには僕が1軍で活躍し、一緒に生活できるぐらい稼がないといけないと思ってやってきました。

インドネシア人の父 今は会いたい

 家族は宝物。今の僕があるのは、家族のサポートがあってこそ。父と母がいたから、この世にいるわけですし。入団会見では、活躍して「松木平」の名を世界にとどろかせたいと話しました。僕が活躍すれば、父にも届くだろうと思って。今は会って話をしたいです。

 母には会えないけれど、もし会えるなら、「小さい頃の夢だったプロ野球選手になることができたよ。丈夫な体に産んでくれてありがとう」と伝えたい。もっと、一緒に過ごしたかったとも言いたいです。

 おばあちゃんにテレビでプレーを見てもらうため、関東でも中継のある日本シリーズに出たい。一緒に住めたら、僕の夢はそれで終了です。おばあちゃんと暮らすことが一番の夢。それがかなえられたら僕の人生は終わってもいい。それぐらい感謝しています。もっと活躍して夢をかなえられるようにしたいです。

松木平優太(まつきひら・ゆうた)

 2003年生まれ。大阪市出身。精華高校から、20年の育成ドラフト3位指名で、中日ドラゴンズに入団。今季は2軍で好投を続け、7月、1軍にも出場できる支配下登録を勝ち取った。1軍では8試合2勝4敗、防御率3.70。力強いストレートと変化球のコンビネーションが光る本格派右腕。