歌手 山川豊さん 紅白で兄と一緒に「母」の歌…最高の親孝行ができた

(2018年7月1日付 東京新聞朝刊)

6歳上の兄・鳥羽一郎さんとの関係について語る山川豊さん(稲岡悟撮影)

兄貴より先にデビュー、でも紅白は…

 僕と歌との出合いは子どもの頃、6歳上の兄貴(歌手の鳥羽一郎さん)が買ったレコード。五木ひろしさんの歌を聴いて胸が震え、歌手に憧れました。とはいえ、昔から本当に歌手になりたがっていたのは、歌がうまかった兄貴の方。でも家計が厳しく、兄貴は中学卒業後、漁師として船に乗り、僕と妹を高校に行かせてくれました。

 僕は高校卒業後、三重県の工場や名古屋市のキャバレーで働いた後、レコード会社の人との出会いから東京へ。歌手デビューを目指して見習い社員として働いていた頃、おふくろからその話を聞いた兄貴が船を下りて、僕に会いに来ました。作曲家の船村徹先生の弟子になりたいという。僕が先生に会える場所を教えたら、兄貴は(伊勢名物の)「赤福」を持って会いに行きました。

 普通なら相手にされないと思うけれど、兄貴の強烈な熱意を感じたのか、弟子にしてもらえました。でもデビューは僕の方が1年早かった。兄貴が船村先生のお宅の庭で草むしりをしていた時、僕の歌がテレビから流れてくるのを聴いて、悔しくて仕方なかったと後から聞きました。

 翌年に兄貴がデビュー。初めは「山川豊の兄です」と自己紹介していたそうです。でも兄貴の方が売れ始めて立場が逆になった。NHKの紅白歌合戦にも兄貴の方が先に出場しました。悔しかったですね。でもレコード会社のスタッフやファンの支えもあって、翌年には僕も出場しました。

「2人でなんて、ぜいたく言っちゃあかん」

 その後もどちらかが出て、どちらかが出られない年がありましたが、おふくろは「出たい人がいっぱいいるんだから、2人で出たいなんて、ぜいたく言っちゃあかん」とよく言っていました。なぐさめてくれていたんでしょうね。僕らが歌手になっても「ちゃんと飯食べてるのか」と心配するような母親でした。

 漁師町ではだいたい女性が働き者。うちもおふくろが海女と畑仕事で家計を支えていました。おやじ(94)は競馬、競輪と若い頃はおふくろに苦労を掛けていたけれど、魅力のある男。おふくろが認知症になった時は手に鈴を付けさせ、寝ている時に鳴ったら「トイレに行きたいのか?」と起きて世話していました。

 いつも「人に迷惑を掛けちゃいかん」とか「みんなにかわいがってもらえる人になりなさい」と言っていたおふくろは、2011年に79歳で亡くなりました。05年に兄貴と、紅白で「海の匂いのお母さん」という歌を歌いました。最高の親孝行ができたと思います。

やまかわ・ゆたか

 1958年、三重県生まれ。81年に「函館本線」でデビュー。各種新人賞をはじめ、これまでに多数の音楽賞を受賞。2018年4月に発売したシングル曲「今日という日に感謝して」(ユニバーサルミュージック)には出身地の同県鳥羽市などの名所が登場する。