狂言師 佐藤友彦さん 一番大事なのは体で覚えたもの 子を対等に扱い、伝えてくれた父
明治生まれの父 習いごとは「能狂言」がステータス
父は明治の終わりに文具問屋の次男に生まれました。当時は子に能狂言を習わせるのがステータスだったようで祖父が狂言を習わせました。
所属していたのは、明治から続く「狂言共同社」。尾張藩のお抱えだった和泉流宗家が上京後、名古屋に残った弟子たちが結成しました。
戦時中、父や共同社の同人は台本、能面、装束などを牛車で疎開させたり、土中に埋めたりして守ったそうです。その後、一家で青森に疎開。戦後、名古屋に戻り、狂言を再開したのですが、生活は苦しく、父は職を転々としながら、舞台に立っていました。
5歳のころ連れて行かれ、向かい合って深々とおじぎ
5歳のころ、父に何度か稽古に連れて行かれ、その後「おまえも稽古する」と。父は私と向かい合って座り「お願いいたします」と深々とおじぎをしました。一人の大人として対等に扱われていると感じ、すごく緊張しました。
狂言は、室町時代の庶民の日常を描く喜劇が中心。キツネやタヌキといった動物のほか、山芋の幽霊も登場し、数百年前の人々の世界観が分かる。本質はその世界観を伝えること。昔のままの姿で伝えていくことが大切で、稽古では父の言い方、所作、全てをまねました。何度もやり直し「頭でなく、体で覚えるんだ」とよく言われました。
父は身長150センチほどの小柄だったのですが、芸が安定し、一緒に演じていると安心できた。主役を引き立てる「縁の下の力持ち」タイプ。自分で「共同社の番頭だ」と話していました。温厚で、私が小学校に入学した時は机を手作りし、その横に流行漫画の「フクちゃん」の絵を大きく、上手に描いてくれました。
すごいけんまくで怒られ…理由に気づいて目が覚めた
そんな父がすごいけんまくで怒ったことが。私が名古屋大に入学し、国文学の専攻で狂言の文献を読むようになったのですが、稽古で教える父に「本にはこう書いてある」と何回か言うと「もうやめた!」と出て行ってしまった。
別の師に「本にどう書かれているか知らんけれど、わしはこう教えてもらった」と言われ、目が覚めました。芸とは体から体へ伝えていくもの。道具は戦時中に父たちが守ってくれたおかげで、今も使え、ありがたい。しかし、一番大事なのは体で覚えたもの。父が稽古のたびに「お願いいたします」と私に頭を下げていたのは、受け継いできた狂言への礼だったんです。
コロナの影響でやめていた、相手との稽古を6月に再開した時はうれしかった。父も、戦後、狂言に復帰できた時はそうだったでしょう。生前、私の長男と3人で舞台に立ったときは「おれは幸せ者だ」と喜んでいました。「名古屋の狂言を残す」との遺志を継ぎ、私も若手に芸を伝えられることが喜びです。
佐藤友彦(さとう・ともひこ)
1942年、名古屋市生まれ。和泉流山脇派の「狂言共同社」(名古屋市)に所属。重要無形文化財保持者(総合認定)。長男の融(とおる)さん(51)も狂言師。9月27日午後2時、名古屋能楽堂で催される予定の「御洒落(おしゃらく)名匠狂言会」に出演。問い合わせは、狂言共同社=電話052(834)8607へ。