地震工学者 福和伸夫さん 被災地の光景にショック「これでは家族の命を守れない」

(2021年7月18日付 東京新聞朝刊)

地震工学者・福和伸夫さん

8ミリ衰退で父は心を患い、職を失い…

 僕は名古屋っ子で、父方も母方も、江戸の初期までさかのぼれる生粋の愛知県民。昭和の初めに生まれた父は、8ミリ映写機の製造会社に勤めるサラリーマンで、お酒やマージャン、山登りが好き。よく遊んで酔っぱらって、遅刻しながら会社に行くような人でした。

 でも、8ミリ映写機からビデオの時代に変わり、父の会社は経営が苦しくなっていきました。父は経理担当の役員として、解雇も含めて人員整理をしなければならない立場。心を患い、自らも職を失って両親の生活は苦しくなりました。僕はちゃんと働かないといけないと思ったので、清水建設に就職しました。

私は最先端の研究ばかりだったけれど

 就職後に結婚し、10年間を東京で過ごしましたが、家を継がなくちゃいけないと思って、34歳の時に両親が暮らす愛知県日進市の家に戻りました。清水建設で耐震の研究をしていたこともあって、母校の名古屋大で助教授として働くことになりました。

 その4年後に阪神淡路大震災が起き、被災地に入りましたが、そこで見た光景に大きなショックを受けました。壊れていたのは一階の壁が少なくて屋根が重い、古い家ばかり。僕が住んでいた日進の家が、まさにそんな危ない家だったんです。原発施設や超高層ビルの耐震とか、最先端の研究ばかりやっていたけど、自分の家の耐震は全く考えていなかった。穴があったら入りたい気分でした。

 当時は、3人いる子どものうち、3人目が生まれる少し前。このままでは妻や子ども、両親の命を守れないと思い、「家を建て直す」と家族に宣言し、お金を必死でためました。節約も徹底して、外食も旅行もなし。やっと安全な家を建てられた時は、とにかく良かったと思いました。

子どもから教えらえると、大人は素直

 名大の学生に勉強させようと、地震による建物の揺れの実験教材「ぶるる」を作ったところ、「子どもに受ける」ということで防災教育の仕事がもらえるようになり、各地の小中高校などを回って講演活動をしました。子どもから親、親から祖父母へ伝えてもらうのが狙いでした。防災って、大人が大人に教えると「何様だ」と怒られるけど、子どもに教えられると、大人は素直。講演を聴いてくれる子どもたちが、うちの子たちと同世代だったので、教える意欲も湧きました。

 うちの子どもたちから、お父さんの説明は下手だとか、言葉遣いが間違っているとか、ぼろくそに言われていたので、分かりやすく説明するという部分で、すごく鍛えられました。2006年、当時の小泉純一郎首相らの前で「ぶるる」を実演した時、耐震化の重要性を上手に説明できたのも、子どもたちの“訓練”のおかげですね。

福和伸夫(ふくわ・のぶお)

1957年、名古屋市出身。名古屋大大学院工学研究科修了後、清水建設勤務を経て1997年から名大教授。自然災害への備えとして耐震化の重要性を訴え、中央防災会議などで国の南海トラフ地震対策や防災の国民運動の推進に尽力した。一級建築士。日本地震工学会元会長。