ロシア東欧文学研究者 沼野充義さん ロシア語で結ばれた妻と「ヌマヌマ」を名乗ったら…
大学でロシア語劇 私が演出、妻が主演
私は中学、高校で世界の文学を読むうち、ドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学に心を揺さぶるような力を感じるようになりました。こうした文学が、原語ではどうなっているのか知りたくて、大学で本格的にロシア語の勉強を始めました。
妻とはロシア語によって結ばれました。ロシア語を教えていたロシア人の先生の企画したロシア語劇がきっかけです。私が大学院生で演出を担当した時、3歳下の妻は主演女優。45年ほど前から親しくつきあい始めました。
結婚したのは1981年3月。私はこの年の秋から米ハーバード大への留学が決まっていました。膨大な文献に当たる文学の研究は博士号取得に5、6年かかります。私は先のことまで考えていなかったですが、国際報道の仕事をしていた妻は「一緒にアメリカで暮らしたい」と83年に退職し、同じ大学で日本語を教えて生活費を稼ぎました。
いろんな民族の人たちに招かれ食事を持ち寄ったパーティーで、私たちは多彩な文化に触れました。ロシア文学を学んでいた妻は帰国後に比較文学も修めますが、この経験が良い土台になったはずです。夫婦の絆も深まりました。
もう年だし、少しふざけてもいいかなと
2人ともロシアの現代文学に関心が強く、ロシアへ作家を訪ねたことも。子どもが2人生まれて一緒に海外には行かなくなりましたが、共通の知人を日本に招き、共同で講演会や朗読会を開きました。
2021年秋、私たちが翻訳した作品を「ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選」(河出書房新書)として出版しました。妻は女性作家のしっとりした作品を、私は驚かせてやろうと挑発的な作品を意図的に選びました。ロシア文学の多様性を示したかったからです。
ヌマヌマを名乗ったのは、初めて。もう年だし、少しふざけてもいいかなと提案しました。普段、私がくだらない冗談を言うと怒るので、反対するかと思いましたが、装丁を見た妻は「あまりにもポップで衝撃的!」ですって。
ウクライナ侵攻 身を切られるような…
同じ時期、私は脳出血で倒れて入院しました。翌年2月にロシアがウクライナに侵攻。精神的な負担も大きかったです。妻は「戦争のせいで病状が悪化した」と言います。8カ月後に退院しましたが、左半身がまひしており、妻が介護してくれています。
ロシアの侵攻を「身を切られるような悲壮な感じがした」と妻。私もそうです。ここまで関わってきたロシアはもはや私の一部。取り消しようがありません。苦痛や屈辱、恥ずかしいような、いたたまれない気持ちが続きます。
侵攻から1年。プーチンへの嫌悪感から文学やロシア語専攻の人気は落ちていないか妻と案じています。今だからこそ、素晴らしい芸術や文化を生みだした大国の謎めいた性格を解き明かすために、研究者はロシアに向き合ってほしいです。
沼野充義(ぬまの・みつよし)
1954年、東京出身。1979年、東大大学院修士課程修了。1981~1985年、ハーバード大に留学。名古屋外国語大教授。東大名誉教授。訳書にスタニスワフ・レムの「ソラリス」など。著書「徹夜の塊2 ユートピア文学論」(作品社)が2004年、読売文学賞を受賞。妻は東京外国語大教授で、ロシア文学、比較文学、翻訳家の沼野恭子さん。
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