将棋九段 加藤一二三さん 引退を真っ先に告げると、妻は…

(2019年4月28日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

写真

(中西祥子撮影)

「お疲れさま」とネクタイを贈ってくれた

 現役引退がかかっていた2017年6月の対局で敗れた直後、私は記者会見をせず、すぐに会場を後にしました。63年の棋士人生の中で、対局に負けた場合のことを事前に考えたことは一度もありませんでした。でも、最終対局での負けを悟った瞬間、まずは長年苦楽を共にしてきた妻に伝えたいと思いました。家族は何よりも大切です。記者会見を開くよりも先に、家族に引退を報告することは、私にとって当たり前のことでした。

 「負けました」。帰宅後、妻にそう報告すると、「お疲れさま」と、用意していたネクタイをプレゼントしてくれました。私が負けて帰宅した時は顔を見れば分かるというので、その対局以外では、妻に負けを報告したことは、ほとんどなかった。でも、最後の対局は引退の区切りとして、どうしても伝えたかったのです。

忍耐強く、優しい励まし 名人を目指す力に

 勝ったり負けたりの勝負人生でした。30歳前に棋士として行き詰まっていた時期もありました。妻は「あなたは棋士だから、どんな時もいい将棋を指さないといけない」と励まし続けてくれた。「それなら名人になることを目標にしよう」と思って、戦ってこられました。ある時、妻が昔を振り返ってこう言っていました。「あなたに対して言いたいことがある時期もあった。でも勝って喜ぶ姿を見て言えなかった。負けた時も追い詰めたくなくて、言えなかった」と。陰で忍耐強く、穏やかに、優しく、私を支え続けてくれました。

 私はクリスチャンです。30歳で洗礼を受け、43歳からは東京の教会で、式を挙げるカップル向けに、妻と「結婚講座」の講師を務めています。キリスト教の教えや、「けんかした時は、なるべくその日のうちに仲直りするよう心掛けるといい」などというような話をします。これまで担当したカップルは約300組。講座を受けた人たちの同窓会もあり、結婚後に生まれた赤ちゃんを連れてきて、ミルクをあげる元新郎のいいパパぶりなんかを見るとうれしくなります。

4人の子育て 前向きな人生観が大切

 私自身、4人の子どもに恵まれました。棋士は自由業なので仕事があったり、なかったりの時期も。でも子どもが1人増えたらその分、仕事をすればいいし、その子を養うための仕事は来ると思ってきました。三女が生まれる際には「逆転の将棋」というタイトルの本を出版したら、とても売れて、それで出産費用ができました。その子が食べていく分は、ちゃんと神様が与えてくださる。今の日本では、子育ては大変だという風潮もありますが、前向きで楽観的な人生観も大切なのではないかな、と思います。

加藤一二三(かとう・ひふみ)

 1940年、福岡県生まれ。将棋棋士九段。1954年、当時最年少の14歳で中学生プロ棋士としてデビューし、最多対局、最高齢勝利などの記録を保持。名人など通算タイトルは8期。「ひふみん」の愛称で親しまれ、著書に「天才棋士 加藤一二三 挑み続ける人生」(日本実業出版社)など。

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