歌手 神野美伽さん 「お父さん、アホやなぁ…」縁を切った父が晩年に流した涙

野呂法夫 (2023年12月3日付 東京新聞朝刊)

家族の思い出を語る神野美伽さん(五十嵐文人撮影)

デビュー後に両親が離婚 仕送りで支援

 私が生まれ育った大阪府南部の貝塚市は紡績工場の街です。1964年東京オリンピック女子バレーボールで地元・ニチボー貝塚の選手が中心の「東洋の魔女」が金メダルを獲得して有名になりました。

 父、亀吉は織物機部品を修理する下請け業でした。住宅の隣の工場で接着剤に使うニカワを溶かすにおいと、作業中につけっぱなしのラジオから流れる洋楽や民謡などの音楽が子どもの頃の思い出です。

 近所の人が盆踊りのひと月前から太鼓をたたき、のど慣らしで歌う江州(ごうしゅう)音頭を私も覚えました。6歳の時にやぐらで歌ったのが初舞台です。踊りの輪がどんどん広がり、大きな拍手をもらったのがうれしかった。

 その後も盆踊り期間中は引っ張りだこで、3日間歌うと、ご祝儀は父の稼ぎの数カ月分でした。全て家庭に入れていました。両親は勉強も友達関係も放任主義でしたが、それが逆に自立心を養い、自分で行動して切り開くことが身に付いたと思います。

 高校卒業後に上京しデビューしてから両親は離婚しました。母、佳予子は私の妹2人と一緒に家を出て、私は仕送りをして支えました。20代のときに歌手を続けていいのか悩みましたが、末の妹は8歳下で、やめられません。いま歌手でいられるのは妹たちのおかげです。

父の借金の取り立ての人が公演にまで…

 その頃、父と縁を切りました。私が借金の返済に応じてきましたがキリがなく、大阪の公演に取り立ての人たちが来たこともありました。父はだまされて連帯保証人にもなり、字をほとんど書けないので、私にお金を無心する手紙は代筆でした。憎むよりも、教育を受けられなかった父への切なさで「お父さん、アホやなぁ…」と。とにかく反面教師でした。

 年老いて一人で暮らせなくなってから再会し、貝塚市内で介護施設を探しました。昨年暮れ、コロナ下に入院していた父を妹たちと見舞って病室に一人ずつ入ると、「えっ、どなたさん」と驚いて喜び、泣き続けていました。

 今年2月、40周年記念大阪公演の直前に父は82歳で旅立ちました。葬式では30歳過ぎの若い頃の写真を飾り、私は今、自宅で毎朝、水を供えて遺影に「おはよう」と声をかけています。

 85歳の母は東京都内で、私の上の妹と暮らし、寝たきりの状態です。孤児で育って苦労しながらも、娘たちとの楽しい思い出はたくさんあると思います。

 私は33歳で作詞家の荒木とよひさ先生と結婚し、50歳で離婚しましたが、今はたまに会って、大切に思い合える良い関係です。私にとって家族とは、生きて働き続ける原動力でもありますね。

神野美伽(しんの・みか)

 1965年、大阪府出身。1977年、テレビの歌番組出演でスカウトされ、作曲家の市川昭介門下で1984年にデビュー。代表曲「男船」。演歌、ジャズやラテン音楽と幅広く活躍。今年は「神野美伽ベストセレクション~旅立つ朝~」、カバーベストアルバム「遥歌(はるか)」、40周年記念曲「夜が泣いてる」をリリース。

コメント

  • 先日、新歌舞伎座の神野美伽さんの歌を3日間聞かせて頂きました。私は舟木一夫さんのファンですが、神野さんの素晴らしいライブにとても感動しました。これからは、神野さんも応援したいと思いました。 これ
    ゼンさん 男性 70代以上 
  • 以前は、こうゆう歌手がいるんだなぁ‥程度ぐらいでしたが、何故かは判りかねますが、去年辺りから急に気になり始めました、不思議です。 兎に角、精一杯、体を張って歌い捲る・・そんな神野さんを観ていると、根
    誑子 男性 70代以上