〈坂本美雨さんの子育て日記〉9・「あの日」からつながった
被災地を想う
娘にとっての2回目の3・11は、東京・代官山にある西郷山公園へ行こうと決めていた。ここは、地震が起きてすぐに、自分がいたスタジオから一人で歩いて避難してきた場所。あの日はポカポカと暖かく晴れ渡っていて、公園の真ん中にある1本の河津桜が見事に満開だったのが忘れられない。今年は暖かかったのか、すでに葉桜になりかかっていたけれど、あの日のような陽気の中、家族と親友で黙とうし、そしてドーナツを食べた。
熊本地震からもうすぐ1年でもある。先日、熊本県から有機農家「のはら農研塾」を営む友人の野原夫妻が上京した。福島で活動する仲間と共に、3・11に現地を自分の目で見たいと思ったからだという。福島に行く前の晩に、久しぶりにゆっくりとご飯を食べることができた。
野原一家は、熊本地震で家が半壊し、何カ月も事務所に寝泊まりしながら地元のために走り回ってきた。
つながりこそ防災
地震が起きてすぐの4月半ば、畑ではスイカの収穫があった。「スイカは待ってくれないからね」と、野原さんは休むことなく収穫。しかし流通が途絶えたため無駄になりそうだったところ、キャンドルアーティストのキャンドル・ジュンさんが200個のスイカを車に積んで東京に運び、野外イベント「アースデイ」などで販売し、あっという間に完売! また、人のつながりやSNS(会員制交流サイト)を通じてネットの予約販売という形で、のはら農研塾のびっくりするほどおいしいスイカが日本中に行き渡り、さらにそこから、さまざまなフェス(催し)へのスイカジュースの出店などと発展していったのでした。
野原一家の人生は地震によってがらりと変わり、人とのつながりが新たな展開を見せている。野原さんは「人とのつながりが一番の防災だよ」と語ってくれた。
娘を育ててくれたお米
ご飯を食べた日、野原家の旦那さまのケンジさんと娘は初対面。私は数年前に出会ってから、ずっと野原さんの育てたお米を送っていただいており、家族の体は彼のお米でできている。その栄養が母乳を通して娘の体を巡り、彼女を育ててくれた。そしてもちろん娘の初の離乳食のおかゆから、今に至るまでずっと。
ここまで直接的に体を育ててくれている人を知り、信頼することができ、またその人が娘の成長を見守り続けてくれているというのは、なんて稀有(けう)で、幸せなことだろうか。(ミュージシャン)