陶芸家 伊村俊見さん 病と闘いながら作陶を続けた両親 窯の跡継ぎになってと言われたけれど

井上昇治

伊村俊見さん(井上昇治撮影)

父は収入ゼロ 母が内職

 両親はともに大阪から岐阜県の美濃焼の産地に移り住み、陶芸家になりました。金沢美術工芸大の同級生として出会い、24歳で結婚。父が陶芸家になる夢を抱き、土岐市で作陶を始めたんです。1960年代前半のことです。

 今でこそ陶芸を志す若者が全国から美濃に集まり、地元から歓迎されていますけど、当時、よそ者は相手にしてもらえず、完全なアウェー。苦労したと思います。

 父は陶磁器会社をすぐに退社。陶芸家の工房に出入りするようになりましたが、収入はゼロで、母の内職で生活していました。近くに知人もいなくて、一人っ子の私はいつも親にくっついていました。

 独立しても作品は全く売れず、母が大阪に出向いて親戚や知人に売り歩きました。父が、ろくろ職人として仕事をもらい、母もさまざまなアルバイトをして食いつないだと聞いています。亡くなる前、父は「貧しくても夢があった。なんとかなると思った」と振り返っていましたが。

 心機一転、71年に隣の瑞浪市に転居して窯を開きました。私が今も制作している工房です。当初はススキに覆われた空き家。水道もなく、沢水をためて利用し、少しずつ作業場を整えていきました。織部、瀬戸黒、志野など伝統的な茶陶を始め、多少は生活できるようになったようです。

 父は山から取ってきた原土や釉薬(ゆうやく)原料を自分で調合するなど、こだわりが強い人でした。父を手伝うことで陶芸の技術を身に付けた母も丁寧な仕事を心掛けていました。両親から学んだのは、良い物を作るには手間を惜しんではいけないということです。

両親とは違う現代陶芸を

 父は50歳手前から病気で入退院を繰り返し、闘病しながら作陶を続けていました。遅れて40歳ごろから自分の作品を作り始めた母は、父の病気をきっかけに「このままでは共倒れになる」と陶人形や茶器などの制作に本腰を入れました。2009年に父が亡くなると、今度は母が悪性リンパ腫になって…。病と闘いながらも一昨年に亡くなるまで制作に打ち込みました。

 母には小学生の頃から窯の跡継ぎになるように言われていました。苦労して始めた窯が一代で終わるのが忍びなかったのでしょう。ただ私自身は迷いもありました。陶芸は好きですが、生計を立てるために窯を守る両親のやり方には疑問も感じて。

 結局、実家に戻って、妻と長男、長女とともに両親と暮らしましたが、定年まで高校の教員を続けました。その一方、陶芸家としては好きな表現をしたくて、両親とは違う現代陶芸の世界で黒陶のオブジェを作ってきました。

 窯を継いだと言えるかどうかは微妙ですが、今思うと、両親と同じ工房で一緒に制作できて良かったなあと。この窯を大切にしたいと思う自分に気が付いたんです。

伊村俊見(いむら・としみ)

 1961年、大阪市生まれ。金沢美術工芸大卒。岐阜県立多治見工業高窯業専攻科修了(当時)。陶芸家。多治見市美濃焼ミュージアム館長。同県瑞浪市を拠点に作陶。95年、国際陶磁器展美濃・陶芸部門グランプリ。2004年の「非情のオブジェ-現代工芸の11人」(東京国立近代美術館工芸館)など数多くの展覧会に出品。