プロレスラー 棚橋弘至さん 家族を犠牲にして務めたチャンピオン 妻には一生頭が上がらない

長田真由美 (2024年6月2日付 東京新聞朝刊)
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棚橋弘至さん(稲岡悟撮影)

家族のこと話そう

子どもは大学生2人 幼い頃は…

 父は、アントニオ猪木さんの大ファン。猪木さんの本名「寛至(かんじ)」から1文字いただいて、名前が「弘至」になったそうです。真面目な人ですが、酒を飲むと超陽気です。一方の母もいわゆる「天然」で明るい人。僕は2人の陽の部分を受け継ぎました。

 おばあちゃんがプロレス好きで、僕も子どもの頃から見ていました。大学で同好会に入り、新日本プロレスの入門テストに合格。後楽園ホールでのデビュー戦には、両親とも見に来てくれました。それからも北海道から福岡まであちこちで観戦し、おいしい物を一緒に食べた。出かけるきっかけをつくって、両親の行動範囲を広げられたという意味では親孝行できたかな。

 その後結婚して、大学生の子どもが2人います。ただ、幼い頃はあまり一緒に過ごせませんでした。2000年代に入って新日本プロレスの観客動員数が減ってきて、試合がない時もプロモーション活動があってほとんど家に帰れなかったからです。

 特に10年代は僕がチャンピオンだったことが多くて。プロレスのチャンピオンというのは、自分の家族だけでなく、所属選手、その家族、社員、スタッフの全員を食わすものだと思っていた。その分、自分の家族を犠牲にしたという反省があります。「僕が家にいる時は子どもを見てるから出かけてきていいよ」と言ったけど、年に数回。嫁さんには一生頭が上がりません。

家にはプロレスを持ち込まない

 家にはプロレスを持ち込まないと決めています。「疲れた」とも、けがで「痛い」とも言わない。一度、足を引きずって帰った時、玄関を上がる前に嫁さんから「散歩行ってきて」と、飼っているトイプードルを渡されました。足をひきずったプロレスラーが、小型犬に引きずられる…。家でも鍛えられました。

 大学3年の娘(女優の呼春(こはる))はもともとキッズモデルをしていて、その後、「劇場版仮面ライダービルド」に出演。小さい頃は試合にも来てくれました。大学1年の息子は最近、「パパの試合見てるよ」と言うんですが、「今さらか!」って思いますよね。だいぶロートルになってきたんで、「全盛期を見ろよ」ってね。

 でも、仕事に興味を示してくれるのはうれしかった。息子は今、金髪に赤色をいれて、ど派手な頭。僕は今も金髪だから、一緒に歩くとやんちゃな親子。筋トレに行きたいと言うんで、一緒にジムでトレーニングするつもりです。

 子どもたちとは、対等な関係というか、いい距離感で向き合えていると思います。それも妻のおかげ。うちはアメとムチがはっきり分かれていて。たまに帰った僕は「コンビニ行こうか。何でも買ってあげるよ」。一方、妻は言葉遣いにも厳しい。おかげでしっかりした子どもたちに育った。そのうち家族でゆっくり旅行に行きたいですね。

棚橋弘至(たなはし・ひろし)

 1976年生まれ、岐阜県大垣市出身。立命館大のプロレス同好会を経て、新日本プロレスに入門。1999年にデビュー、2006年以降にIWGPヘビー級王座に歴代最多の8回就いた。昨年12月に新日本プロレスの社長に就任。9日、大阪城ホールで大会「DOMINION」を開く。

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