画家 吉本作次さん 「人は生きたいように生きていい」と全てを肯定してくれた実父と義父に感謝

井上昇治 (2024年5月26日付 東京新聞朝刊)
写真

吉本作次さん(今泉慶太撮影)

家族のこと話そう

豪快でロマンチストな昭和のおやじ2人

 昭和のおやじが2人いたなあ、と強く印象に残っているのが、亡くなった実父と義父(妻の父親)。共に旧制高校を出てから医者になった人で、人間味あふれる豪快なロマンチストでした。

 父は名古屋の新栄の辺りで江戸時代から続く油問屋の家に生まれました。おぼっちゃまだったようですが、海軍機関学校、名古屋の旧制八高から、医学部に進んで医者になりました。父の転勤で、家族は岐阜や高知、滋賀を転々とし、家族5人で三重県桑名市に落ち着きました。

 僕は3人兄弟の真ん中。兄と弟は今、医者です。僕は勉強があまりできず、小学校のときから怒られてばかりでした。弟とは7歳ほど離れていて、子どもの頃、泣かすと、父からビンタが飛んできました。高校生の頃は反抗期。楽しいはずの晩ご飯の時間に父とののしり合い、兄と弟は「また始まったよ」とあきれた感じでした。そんな父ですけど、常識を押しつけてこないのはよかった。

 僕は鉄腕アトム世代。漫画家になりたかったけど、高校生のときに油絵に夢中になりました。父からは「運動部に入って体を鍛えろ」と言われていましたが、父に殴られても意志を貫き、美術部に入ったんです。僕が自分の道を決めた後、もともと音楽や文学が好きだった父は「一生、美術をやるんだな」と応援してくれるようになりました。

 僕は1980年代半ばに若手画家として期待されるようになり、NHK「ニュースセンター9時」などで華々しく紹介されましたが、その後が続かず落ち込んでいました。

「人間は面白く生きて、なんぼだ」

 その頃、お世話になったのが88年に結婚した妻(名古屋芸術大の同級生)のお父さん。沖縄出身で旧制台北高校から医学部に進み、米国に留学。その後、名古屋でグループ診療のシステムを始めました。「人間は面白く生きて、なんぼだ」を自ら実践したエネルギッシュな人でした。

 僕は無職に近く、お金もありません。いつも同じ服で、結婚式もしませんでしたが、「結婚式なんてせんほうがいい。収入は30代、40代にかたちができてくれば、おのずと入ってくるよ」と僕の生き方を全肯定。人の面倒を見るのが好きで高級料理店にもよく連れていってくれました。

 “全肯定”と言えば、実父も「人はもっと生きたいように生きていいんだよ」という考えでした。僕は今、大学で指導している学生に対して、ぺこぱの漫才みたいに全肯定でいこうと思っていますが、その根っこには父の影響があるんです。そんな父を母は「むちゃなことをする人だったけど陰湿ではなかった」と振り返っていました。

 医師として患者さんを治しても、その何年か後に亡くなってしまうこともあります。父は「美術は作品が残るからいいよなあ。作次はいい職業を選んだわ」と言ってくれました。

吉本作次(よしもと・さくじ)

  1959年、岐阜市生まれ。名古屋芸術大卒。同大教授。80年代のニュー・ペインティングの時流に乗って注目され、以後も日本の現代絵画を探究。名古屋市美術館で6月9日まで「特別展 吉本作次 絵画の道行き」を開催している。個展は、名古屋のケンジタキギャラリー(8日まで)や、東京の同ギャラリー六本木(22日まで)でも開いている。

0

なるほど!

1

グッときた

0

もやもや...

0

もっと
知りたい

すくすくボイス

この記事の感想をお聞かせください

/1000文字まで

編集チームがチェックの上で公開します。内容によっては非公開としたり、一部を削除したり、明らかな誤字等を修正させていただくことがあります。
投稿内容は、東京すくすくや東京新聞など、中日新聞社の運営・発行する媒体で掲載させていただく場合があります。

あなたへのおすすめ

PageTopへ