徳川宗家19代当主 徳川家広さん 「この家に生まれたからには」とは一度も言わず、自由にさせてくれた父

植木創太 (2023年12月24日付 東京新聞朝刊)
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徳川家19代当主の徳川家広さん(稲岡悟撮影)

家族のこと話そう

父は23歳で当主に 会社員との二刀流

 「家康時代から言い伝えられた家訓があるのでしょう」「お殿様の家として継ぐことの重圧は大きいですよね」

 昔から、こんな質問をよくされてきました。でもそのたびに、どう答えるか悩みます。家康以後、3、4代に一度ぐらいの頻度で養子も入り、時代ごとに将軍、公爵、普通の人と立場も変化しており、その間ずっと当主だけに伝わることなどないんですよね。

 先代である父(83)からは、「そろそろ身を固めなさい」といった親としての小言は数え切れないほど聞かされました。ですが、歴史的責務のように「この家に生まれたからには」と言われたことは、実は一度もありません。あまり家のことを考えずに生きてこられたのは、父が60年にわたって当主の務めを果たし、息子を自由にさせてくれていたからだとも思います。

 父は、会津松平家の分家の生まれ。14歳で徳川家へ養子に入り、先々代の死去に伴い23歳で18代の当主になりました。海運大手の日本郵船でサラリーマンをしながら、その務めを果たしてきたわけです。会社では国際畑が長かったので英語が堪能。米国勤務中以外の時は有給休暇を使い、日光と久能山の両東照宮の大祭で祭司を務めました。

 会社でも責任ある重い役職だったので、当主の務めと仕事の両立はかなり大変だったはずです。

 サラリーマン時代の父は休みになると、部屋でよく寝ていた印象です。元キャビンアテンダントの母はもっと出かけたかったようですが、家族旅行の記憶は、それほど多くありません。父は仕事で会食が多い分、予定のない日はできる限り自宅で食事を取ったので、みんなで外食することもあまりなかったですね。

家康没後400年 節目で考え始めて… 

 会社を退いてからは当主としての活動により注力し、資料や文化財を後世へつなぐ徳川記念財団を設け、資料の展示会を全国で開きました。仕事では海外が主戦場だったので、地方に行くのは新鮮だったようです。大の日本酒好きで、各地の料理が楽しみということもあったと思います。

 そんな父と継承を考え始めたのは、2015年の家康没後400年の祭事に一緒に出席したあたりから。父が後期高齢者になった年でもあり、「そろそろ」と互いに言い出しました。代理で行事に出るなどして徐々に引き継いでいたので、正式には今年1月でしたが、実質は数年前に代わっていたといえます。

 ただ、祭事の準備を進めていたら、NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が決まった。先祖に光が当たるのはうれしいですが、忙しさには拍車がかかったと思います。

 徳川が治めた江戸時代は戦乱がほとんど起きなかった希有(けう)な期間です。その足跡を現代に伝え続けることは現当主の使命。先代に負けないぐらい力を注ぎたいです。

徳川家広(とくがわ・いえひろ)

 1965年、東京都生まれ、慶応大卒。米国で修士号を取り、国連食糧農業機関などで勤務。帰国後は翻訳家や政治経済評論家として活動。2021年から公益財団法人徳川記念財団理事長。今年1月に当主を継承し、YouTubeチャンネル「TOKUGAWASHOGUN TV」などで歴史について発信を続ける。

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