料理人 陳建太郎さん “中華の鉄人”の父に学んだ四川飯店の魂「料理は愛情」

藤原啓嗣 (2024年2月4日付 東京新聞朝刊)
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祖父や父のことを話す陳建太郎さん(池田まみ撮影)

家族のこと話そう

「料理の鉄人」をスタジオで見て

 祖父は四川料理を日本に伝え、四川飯店を開いた人です。父は2代目。2人とも僕に「料理人になりなさい」とは言いませんでした。目指したきっかけは、父が「中華の鉄人」として出演していたテレビ番組「料理の鉄人」です。

 父がフレンチの坂井宏行さんとオマールエビで対決したのをスタジオで見学しました。当時20歳。父は敗れたのですが、健闘をたたえ合って抱き合った姿は今も強く心に刻まれています。すぐに四川飯店に入りたいって父に言いました。家の味を守って次の世代につなごうと思いました。

 ほどなく「自分がいると甘やかす」との父の配慮で、父がいない渋谷の系列店で給仕サービスから修業を始めました。父は厨房のイメージを変えようと率先して動いていました。「自分たちが楽しめないでどうやってお客さんを喜ばすんだ」と、お客さんにも業者にもみんなに感謝の気持ちを表す、笑顔で働く職場を目指していました。

 祖父は、「あなた、いま彼女作るといい」と、大切な人を思って料理するのが大事と説いていました。父も「料理は愛情」。それを支えるのが技術で、思いと技術は四川飯店の両輪です。腕がないとただのいい人になっちゃう。

最後の2日間に残したメッセージ

 そんな父が約20年前に大病を患いました。グループ店や従業員、その家族、中国語も話せない未熟な自分を考えるとこれは事件でした。父に、中国・四川省で修業したいとお願いしたら、「そうしたいと思ってもできない人もいる。そこだけは勘違いすんじゃねーぞ」とくぎを刺しながらも許してくれました。

 父は矛盾がない人。帰国後、父が出演する番組で弟子として青椒肉絲を作りました。時間が限られていて、とろみが緩いと気付いたにもかかわらずそのまま出したらめっちゃ怒られました。番組は関係なくて、妥協したことが許せなかったんです。筋が通っていないことが大嫌いでした。

 10年前、シンガポールに四川飯店のパートナーシップ店を出した時に一番支えてくれたのが父。36歳で店を継いだのも父の気遣い。父は34歳の時に祖父を急に亡くして苦労したので、僕が3代目となる準備を整えてくれていました。「ゴルフに自由に行きたかったし、俺の作戦通り」と笑っていましたが、違うと思います。

 父が亡くなったのは、昨年3月11日。最後の2日間を一緒に過ごしました。話せなくなっていた父は「みんなありがとう」とノートに書きました。メッセージを残す強さに打たれました。僕はそれから、自分の年齢や実力に関係なく、できることは全力でやろうとスイッチが入りました。寂しいですが、自分の中では今も父は生き続けています。四川飯店の味や思いは変えたくないから、人を育てたい。仮にうちの麻婆豆腐が工場で作れるようになってもそこに魂を吹き込むのは人です。

陳建太郞(ちん・けんたろう)

 1979年、料理人の陳建一さんの長男として東京に生まれる。祖父は四川料理の第一人者、故陳建民さん。2002年に四川飯店に入社し、2005年から2年半、四川省で語学と料理を学ぶ。2015年、国内に13店ある四川飯店グループの運営会社、民権企業の社長に就いた。

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