料理研究家 村上祥子さん 最大の親友でパートナーだった夫 今も毎朝「おはよう」

熊崎未奈 (2021年6月13日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

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村上祥子さん(本人提供)

社宅で料理を教えたのが評判に

 夫の啓助と出会ったのは、私が北九州市にいた大学4年の時でした。彼は製鉄所の社員で、当時29歳。誠実そうな人という印象で、私は出会ったその日に、自分の両親に「結婚しようと思う」と伝えました。私は何でも決断が速いんです。大学を卒業した翌月に結婚しました。

 社宅のアパートで新婚生活が始まりました。程なく夫が東京に転勤になり、一緒に引っ越しました。そこで、夫の同僚の米国人の奥さんに日本の料理を教えるようになったんです。次第に評判が広まって、社宅で料理教室を開くように。その後、大分、東京、福岡と引っ越すたびに社宅などで教室を開きました。

 腕を上げるため、料理コンテストにも出ました。もっと勉強しようと、1985年から母校の福岡女子大で栄養指導講座も担当するように。誰でも簡単に作れる電子レンジ調理に着目してレシピの開発を始め、メディアへの出演も増えました。

試作料理を食べ「僕は実験台」

 夫は、そんな私を全面的に応援してくれました。「やりたいことがあるのはいいことだ」と。私は30代後半から顎の骨の病気で手術を繰り返し、食べることの大切さを知りました。50代になり、3人の子どもたちが進学や就職で巣立った時、福岡の自宅兼スタジオに加え、東京にも仕事の拠点を持ちたいと思うようになりました。「ちゃんと食べて、ちゃんと生きる」という理念を伝えなければ、と思ったからです。夫に伝えると「そう言うだろうと思った」と言い、一切反対しませんでした。東京と福岡を往復する日々が始まりました。

 ビジネスマナーやルールは夫から教わりました。退職後は経理を一手に引き受けてくれ、スタッフからは「啓助ATM」と呼ばれて頼られていましたね。ユーモアもある人でした。私は料理の試作品を何度も何度も作ります。実験段階のものを食べてもらうこともよくあり、「僕は実験台」と冗談めかして言ってました。そういう受け止めができる人で、ありがたかったです。

自分らしく1人で生きるために

 夫は2014年に亡くなりました。私は維持費を考慮して東京のスタジオは手放し、福岡に戻ることにしました。夫がいれば「損得勘定を気にせず、好きな仕事をずっと続けなさい」と言ってくれたと思います。でも、仕事である以上、赤字はだめ。これからは私も含め、自分らしく1人で老後を生きる時代になる。次のステップに進もうと思ったんです。

 夫との暮らしは大変楽しかったです。夫は私にとって最大の親友であり、パートナーでした。猪突(ちょとつ)猛進の私をずっと見守ってくれたこと、心から感謝しています。仏壇は、リビング兼キッチンにあります。毎朝、「おはよう」と声を掛けて1日を始めるのが日課です。

写真 村上祥子さん

(本人提供)

村上祥子(むらかみ・さちこ)

1942年、福岡県生まれ。管理栄養士。電子レンジ調理やシニア向けの1人分レシピなどを考案し、著書は500冊を超える。近著は「ちょっとおしゃれでずっと元気に暮らす」(PHP研究所)。2016年に福岡女子大客員教授となり、料理教室や学校での食育にも取り組む。

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