半沢直樹で話題の劇作家 佃典彦さん 岸田戯曲賞「ぬけがら」 きっかけは認知症の父です

長田真由美 (2021年1月17日付 東京新聞朝刊)

両親との思い出を語る佃典彦さん(太田朗子撮影)

6畳1間に4人 狭い空間で大げんか 

 子どもの頃は名古屋市内にある6畳1間のアパートに住んでました。僕とおやじ、おふくろ、おばあちゃんの4人。狭い空間に毎日一緒だと、ちょっとしたことで大げんかして茶わんが飛びます。おふくろが怒ると、言い返したら倍になって返ってくるので、おやじと僕は黙ってました。

 おふくろとおばあちゃんが着物の洗い張りや仕立ての仲介業で働いて、家計を支えていました。おやじは建築の仕事をしていたけれど、年に1、2回、図面を引くくらい。あとは朝から晩までテレビを見ていた。時代劇や吉本新喜劇、松竹新喜劇。僕もよく一緒に見て笑っていました。

内定辞退 おふくろと交わした約束

 大学で学生劇団に入団。2年生で初めて台本を書いて医療刑務所で初演もし、芝居作りがどんどん面白くなりました。4年生でおもちゃ会社から就職内定が出ましたが、芝居を諦めきれず、内定を辞退させてほしいと親に頼み込んだ。おふくろには「裏切り者」とハンガーで頭を殴られました。おやじは泣いていたけれど、あとで「自分も絵の勉強をしたかったのに親に反対されてできず、悔しかった」と応援してくれました。

 おふくろと約束したのは、25歳までに観客1000人を動員し、東京でも公演すること。達成できなければ芝居はやめる。大学卒業後、仲間たちと「劇団B級遊撃隊」を立ち上げ、期限内に約束を果たすことができました。

父の世話をしていて「ぴんときた」

 岸田國士(くにお)戯曲賞に選ばれた「ぬけがら」は、受賞の3年前におふくろが亡くなってから、認知症のおやじと僕との間に起きたことを書きました。当時、おやじは80代で、一人暮らしでした。最初の3年は僕が通って世話し、その後亡くなるまでの7年ほどは僕が家族と離れて同居しました。「ただいま」と帰って冷蔵庫を開けると靴が入っていたり、家の中が水浸しだったりということもありました。

 「ぬけがら」は東京の劇団の文学座から頼まれた台本。ちょうどその頃、おやじが深夜にトイレから戻らないことがあったんです。「やばいな」と思ってドアを開けたら「何で開けるんだ」と言う。寝てたと思うんですけどね。それで、ぴんときた。トイレにぬけがらを残して、若いおやじが出てきたら面白い。50代ごろのおやじの写真が僕そっくりで、話ができたらいいなと思っていたこともありました。その後、2人で「ぬけがら」の芝居を見ることもできた。おやじは「俺の話なんだからギャラを半分よこせ」と喜んでいました。

 年に1、2回しか働かないおやじのようには、僕はならないと思っていたんですけど。「(台本を)書いて」と言われて書く今の僕の仕事は、気が付いたらおやじと変わらないですね。

佃典彦(つくだ・のりひこ)

 1964年、名古屋市生まれ。名城大の学生劇団「劇団獅子」で演劇を始め、1986年に「劇団B級遊撃隊」を旗揚げ。2006年、演劇界の芥川賞と呼ばれる「岸田國士戯曲賞」を受賞した。役者、演出家としても活躍。昨年放送のテレビドラマ「半沢直樹」には曽根崎雄也役で出演し、土下座シーンが話題となった。