ジャズシンガー ケイコ・リーさん 父に学んだ、仕事への向き合い方と「隠さないこと」

吉田瑠里 (2018年9月19日付 東京新聞朝刊)

自身の子ども時代について話すケイコ・リーさん(森研人撮影)

自宅の韓国料理店にジュークボックス

 両親は私が生まれる2年ほど前、愛知県半田市の自宅で韓国料理店を始めました。店を切り盛りしながら苦労して私たち4人姉妹を育て上げ、尊敬しています。

 父は会社勤めを辞めて料理人になりました。私が学校から帰ると、ちょうど4升炊きのガス釜でご飯が炊き上がり、開店前によく両親と一緒に食べていました。そんなときに父から箸の上げ下ろしなどを厳しく教えてもらいました。仕事にも厳しく、肉屋さんが納得できない品を持ってくると持ち帰らせました。厨房(ちゅうぼう)で肉の下処理を丁寧にしている姿を覚えています。

 店にはジュークボックスがあり、私は1~2歳の頃から、森進一さんの曲をかけるようせがんでいたそうです。洋楽に興味を持ったきっかけは、母が何の気なしに買ってきたラテン音楽のペレス・プラード楽団のLPレコード。中でも(米歌手の故)ローズマリー・クルーニーさんの歌が好きで、5歳ぐらいから大きな音で聴いていました。

 ピアノも習い始めて、高校卒業後、ピアニストになろうとしたのですが、父は猛反対。母は「手に職を持ってほしい」と、父とけんかしても後押ししてくれました。レストランでピアノを弾いたり、子どもに教えたりする中で音楽業界の人と出会い、歌手になることができました。

「在日韓国人であることを誇りに」

 父には「自分が在日韓国人であることを誇りに思いなさい」と教えられていました。「隠すな」ということです。ピアニストの時は日本の通名で活動していましたが、「自分自身をさらけ出さないと内面の思いを歌に乗せられない」と思い、本名でデビューしました。おかげで、韓国でも同時デビューできたんです。

 デビューアルバム「イマジン」は米ニューヨークでレコーディングしました。黒人のアーティストの中に私が入って歌ったら、向こうのマネジャーが涙を流して褒めてくれました。どこの国の人でも一緒になれる、心を込めて歌えば、米国でも通じると自信になりました。

 でも、CDを3枚出しても、父には「いつやめるんだ」と言われました。「金もうけに走るなら音楽をやめなさい」とも。音楽で生活できる人は一握り。下品な考え方をしてほしくなかったのでしょう。「頑張れ」という感じではありませんでしたが、「駄目になっても帰ってきなさい」と心配してくれていました。

 父は4年前に亡くなりました。デビューして26年。昨年ライブアルバムを作った時、録音を聴いて自分はまだ下手だと思いました。もっと伸びしろがあるはずと思ってライブをやっています。音楽に真面目に向き合ってきたから、芸能界でやってこられた。父の仕事への向き合い方とつながるのかもしれません。

ケイコ・リー

 1965年、愛知県半田市生まれ。1995年にデビューし、昨年10月に最新アルバム「ライヴ・アット・ジャズ・イン・ラブリー」をリリース。「やっとかめ文化祭」の一環で11月13日に名古屋市の名古屋能楽堂で開くライブでは、三味線やギターなど和洋の楽器と共演する(全席自由6000円)。