俳優・劇作家 渡辺えりさん 後になって分かる、子どもを思う親心
上京後、父から毎日手紙が届いた
父は10代だった戦争中、山形県の親元を離れ、東京都武蔵野市の軍需工場で働いていました。爆撃で親友を失い教育の大切さを実感し、働きながら山形大学で学び教師になったそうです。博識で仕事熱心でした。
母はすごく質素で、人柄のいい人。私が子どもの頃は、毎朝起こしてもらうなど面倒を掛け通しでした。高校卒業後、演劇の道に進むため上京した際、「朝、起きられるように」と上野のデパートで母に買ってもらった目覚まし時計は、50年たった今も現役です。
上京後は父から毎日、気遣う手紙が届きました。段ボール3箱分になります。当初、父には演劇の道を反対されていましたが、娘を手元に置きたいのと、成功するのが難しい世界で苦労させたくないからだと後になって分かりました。25歳のときに書いた戯曲「夜の影」を見て、「こういう芝居なら、やってもいい」と許してくれた。以来、東京での舞台は、両親は必ず観に来てくれました。
頼み事のなかった両親が「旅行に」
2人との思い出は、14年前、3人で行った旅行です。78歳だった母が、急に電話をしてきて「認知症になりそうだから、旅行に連れて行ってくれ」と。両親はそれまで、私に頼み事をしたことがなかった人たち。伊勢神宮と出雲大社、日光東照宮、広島平和記念資料館に行きたいと言い、10日間休みを取って連れて行きました。
この時の資料館がきっかけで、私は平和についてより考えるようになったんですが、旅行では両親はすぐに館の外へ。「来たいと言ったのに何で?」と怒ったら、母は「気の毒過ぎて見ていられない」と。親は子どものことを思って行動してくれているんだなとつくづく思いました。その後、この旅行の写真を見るのが母の毎日の楽しみになったそうです。
母は認知症 元気でいるのが親孝行
親が望むように近くにいられなくて申し訳ない気持ちを強く持ってきて、さあ、これから親孝行と思っていたころ、両親は認知症で施設に入ることに。芝居を親に見せることができず、何のためにやっているんだろうと思った時期もありました。施設には、毎月1回面会に行っていましたが、コロナのせいで2年前からはガラスの窓越し。つらいですね。
父の体に触れたのは、父が5月に亡くなった後。肩を触った時に、小学生の頃、海水浴場で肩車をしてもらったことを思い出しました。ユーモアがあり、たくましかった父。もっと、父と話をしたかった。
92歳の母は施設で健在です。今は、私が元気で活躍するのが親孝行だと思うようにしています。
渡辺えり(わたなべ・えり)
1955年、山形市生まれ。ドラマ、映画、舞台の出演多数。演出家としても活動している。2023年1月14日~28日に京都・南座、2月1日~19日に東京・新橋演舞場で上演の「喜劇 老後の資金がありません」では、室井滋さんとダブル主演を務める。