歌舞伎俳優 市川青虎さん 心と技、支えてくれるのは家族の愛

井上昇治 (2023年4月30日付 東京新聞朝刊)

歌舞伎俳優の市川青虎さん(井上昇治撮影)

2歳で家族と「ヤマトタケル」を見て

 演劇一家でした。演劇をしていて映画も好きだった祖父は、東京の池袋で映画館「文芸坐」の経営に携わりました。祖母は日本舞踊をしていて、両親も若い頃、新劇をしていました。伯母は日本舞踊の林流千永派家元です。

 家族に連れられ、2歳のとき、三代目市川猿之助(現・猿翁)のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を見て、はまりましたね。帰宅後、ずっとまねをして「あれになりたい」と言っていたそうです。

 子どもの頃は親や弟だけでなく、祖父母、伯母も一緒に住んでいて、伯母が鳴り物や三味線、踊り、芝居の稽古を見てくれました。ただ、歌舞伎俳優になることに、家族が最初から賛成してくれたわけではありません。世襲の世界ですし、俳優で食べていく苦労も分かっていたからです。日本舞踊もやらせてくれて、応援はしてくれましたが、小学生のとき、稽古が厳しくて「もう行かない」と泣いて、駄々をこねたこともありました。

 12歳で三代目猿之助の部屋子にしてもらったことは、すごいことだったんですが、ちやほやされて、当時は分かりませんでした。「自分の力じゃないから」「周りの人の支えがあることを忘れるな」と、家族から言われたことを青虎になった今、思い出します。

公演初日に見に来てくれる母と伯母

 青虎を昨年襲名し、歌舞伎界でいえば幹部になったことで、母も伯母も、安心してくれていると思います。一時は、歌舞伎をやめるんじゃないかと心配していたはずなので。19歳の大学生のときに、猿翁が病に倒れて、いわば後ろ盾がなくなりましたから。

 母と伯母はいつも公演の初日に見に来て、感想を伝えてくれます。母とは今、一番連絡し合っていますね。2歳のときに両親が離婚したこともあって、幼い頃の父の記憶はあまりありませんが、今は父とも会っていて、この前も芝居を見に来てくれました。

 弟は、高校生のときから米国に行って現在は、ロサンゼルスで飲食店を経営しています。年子で、幼い頃から、どこへ行っても比べられましたが、助け合ってきました。仲が良く、大きい公演のときは帰国して見に来てくれます。

 大きな役や演出をすると、つらくて孤独を感じることもあります。そんなときは、やはり家族のことを思い出します。皆、大きな愛で包んで育ててくれたんですよね。

 僕自身は、離婚を経験しましたが、すぐ近くに住んでいる中学1年の娘とは行ったり来たりのいい関係です。自分も家族があって今がある。今度は、自分が家族から受けたような愛を娘に注いでいきたいと思いますね。

市川青虎(いちかわ・せいこ)

 1983年、東京都出身。1993年、「市川右近の会」の国立劇場『勧進帳』の太刀持ちとして、三浦弘太郎の名で初舞台。1995年、三代目市川猿之助(現・猿翁)の部屋子となり、市川弘太郎を名乗る。2022年、歌舞伎座『新・三国志』諸葛孔明で二代目市川青虎を襲名。演出、自主公演にも精力的に取り組む。