料理家 飛田和緒さん 家族の要だった母の料理 あこがれの味を再現したくて

(2019年10月20日付 東京新聞朝刊)

料理家の飛田和緒さん(松崎浩一撮影)

天ぷら、塩辛…7人家族と客の食事を、母が一手に担う

 子どものころから食べることが大好きでした。小唄の師匠だった祖母が食い道楽で、外食に付いて回っていました。ステーキにすし、ウナギ…。下町へドジョウを食べに行くことも。何でも食べるので、祖母も「連れていくかいがある」と楽しそうでした。

 家の食事もにぎやか。祖母とそのいとこ、両親、弟、妹の7人家族の上、電機メーカーの営業マンだった父はよくお客さんを連れてきました。夜の食卓には山菜の天ぷらやイカの塩辛、甘辛いつくだ煮など酒のさかなが並び、泊まったお客さんと朝食を食べる時も。料理は母が一手に担い、とてもおいしかった。

 20歳で嫁いだ母は大変だったと思います。私たちが幼い時のことは「全然覚えていない」と言うほど。私は4歳からバレエを習っていて、たまに食器を用意したり、ぬかみそを混ぜたりする程度でした。

一人暮らしで知った大変さ うまくいかないと母に電話

 母も料理が得意だったわけではなく、作りながら身に付けていったそうです。グラタンやオムライスなど洋食が流行すると挑戦し、近所の人にも料理を教わっていました。母の料理を中心に家族がまとまり、一生懸命に台所に向かう母の姿にあこがれました。

 父の仕事の関係で、高校時代は長野市で過ごしました。農家や酒蔵、宿坊の人たちと出会い、土地ごとに食文化があることを学びました。両親は今も住んでいます。

 私はプロのバレリーナになりたくて東京の短大に進学。結局、就職しましたが、一人暮らしを始めた学生時代から料理をするようになり、その大変さに母のありがたみが分かりました。母の味を再現したくて、どうしてもうまくいかないときは電話で聞きました。例えば、五目ずしのレンコンがシャキシャキにならず、味がぼやけていた時は「水からゆでるんじゃなくて、甘酢で煮付けるの」などと教わりました。

41歳で娘出産 両立のため時短と丁寧のメリハリを探る

 41歳の時に娘を出産しました。仕事との両立が大変で、手早く作れる料理を模索。時短でもおいしくと、丁寧に作る部分と省く部分のメリハリをつけました。

 娘には野菜をたくさん食べてほしくて、離乳食の時からだしで煮て食べさせていました。中学生になった今も、だしで煮た料理が大好き。教えていないのに簡単な料理は作れるようになりました。

 娘は思わぬきっかけも与えてくれました。バレンタインデーにクッキーをあげたいと言うので一緒にお菓子作りを習ったんです。振り返ると、生活の変化や娘の成長とともに料理の内容や味も変わりました。それがたくさんの「引き出し」になり、仕事を続けてこられたと思います。

飛田和緒(ひだ・かずを)

 1964年、東京都生まれ。日本女子体育短大(当時)卒業後、会社員、主婦を経て30代半ばから料理家として本格的に活動を始める。ベストセラーの「常備菜」(主婦と生活社)は2014年に料理レシピ本大賞in Japanの大賞を受賞。近著に「家族と歩んだ15年のレシピ 飛田和緒のうちごはん」(KADOKAWA)がある。