プロレスラー オカダ・カズチカさん 「もう少し頑張りなさい」母のメールが夢を支えた
「高校に」と言われたのは一度だけ
父はJA職員、母は看護師でした。自分は身長191センチありますが、家族で大きいのは僕だけです。生まれた愛知県安城市の家の周りは、田んぼばかりで、のどかでした。
子どもの頃、母のふるさとの長崎県・五島列島に行くのが夏休みの定番でした。森で虫を捕ったり、川で泳いだり、伯父さんに海釣りに連れていってもらったり…。あまりに楽しくて、小学5年生の10月から1人だけ伯父の家に下宿し、現地の小学校へ安城から「山村留学」しました。
ぜんそくの持病があったので「空気の良い所で過ごさせたい」という親心もあったのかもしれません。同級生22人のクラスはみんなが仲良く、楽しくて小学校を卒業するまで長崎で暮らしました。
中学生になって、テレビゲームを通じプロレスに興味を持ち、試合を見に行くくらい好きになった。「卒業後はプロレスラーになる」と母親に伝えたのは中学3年のころ。一度だけ「高校に行ってほしい」と言われました。でも、その後はずっと「やりたいことをやりなさい」とだけ。「一度決めたら諦めない性格。やる気なんだな」と察し、応援してくれたのだと思います。気持ちを尊重してくれたことがうれしかったですね。
入門直後の修業で挫折しかけたが…
中学卒業後、メキシコにあるプロレスラー養成学校「闘龍門(とうりゅうもん)」に入門しました。メキシコに行く前に、神戸にあった支部で半年間、寮生活をしながら修業しました。毎日、スクワットを500回、腕立て伏せを300回…。練習生の誰かが挫折すると、全員が1からやり直し。水も自由には飲めなくて、きつかったです。
入門から10日くらいたった頃、「レスラーの体力をなめていた。辞めよう」と思いました。母は「いつでも帰ってきなさい」と送り出してくれたので、「帰ろうと思う」とガラケーで母にメールしました。そうしたら「もう少し頑張りなさい」と返信が来た。「話が違うじゃんか!」と、がっかりしました。でも「そうだよな」とも思った。今さら高校に行く気もないし、プロレス以外にやりたいこともなかった。メールの文面がすんなりと心に入って、背中を押してくれましたね。
息子が生まれて 両親に尊敬と感謝
プロレスラーを辞めようと思ったのは、その時の一度だけ。あのメールがあったから、今も頑張れています。10年前の2月、初めてチャンピオンになり、会場に応援に来てくれた家族や伯父さんにベルトを見せることができ、「おめでとう」と言ってもらえた。「少しは恩返しができたかな」と思えた瞬間でした。
2019年に結婚し、今年8月、息子が生まれました。ミルクをあげたりおむつを替えたり「子育てってこんなに大変なんだ」と実感し、両親への尊敬と感謝が一層強まりました。妻と子どものためにも、今後もけがなく、元気に家に帰ることを続けたい。そして、子どもがいつか自分の夢を見つけたら、ただ応援してあげたいです。自分の両親がそうしてくれたように。
オカダ・カズチカ
1987年、愛知県安城市生まれ。16歳でメキシコでデビュー。2012年2月に新日本プロレスのIWGPヘビー級王座を戴冠した。最強のヘビー級選手を決める同団体の大会「G1 CLIMAX」を昨年、今年と連覇。愛称は「プロレス界にカネの雨を降らせる男」を意味する「レインメーカー」。安城市PRアンバサダー。
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