スポーツの現場で暴力を生む「不正のトライアングル」と勝利至上主義 大人が変わるには?
恐怖で支配 かつて受けた指導を自分も
流通経済大の小谷究(きわむ)准教授(コーチング学)は、かつて日体大バスケットボール部のヘッドコーチだった。全日本大学選手権で14度の優勝を誇る名門。母校を率い、「とにかく強いチームをつくろう」と意気込んだが、結果は残せなかった。
「暴言も吐いたし、何とか選手を恐怖心で動かそうとしていたが、なかなかうまくいかなくて」。関東大学リーグ1部の常連だったチームを2部に降格させ、「精神的にいっぱいいっぱいになった」。
恐怖で他者を支配する。子どものころバスケに打ち込む中で自らもそう指導されてきたし、そのアプローチしか知らない。「正しい」と純粋に信じてきたが、間違いだった。
現在は流通経済大でバスケ部のヘッドコーチを務める一方、コーチを指導する「コーチデベロッパー」の一面も持つ。失敗を経て、コーチングを学び、自分なりの哲学を持つようになった。いいチームをつくる上で欠かせない選手とのコミュニケーションを円滑に進めるために「しっかりと自己認識して、自分の弱さも含めて開示する。正直であることが必要」と話す。
動機・機会・正当化 3つがそろうと…
そもそも、なぜスポーツ指導で暴力が起きるのだろうか。米国の犯罪学者、ドナルド・クレッシーが唱えた「不正のトライアングル」という考え方がある。
例えば、ある選手の態度が気に入らない(動機)、第三者の目が届かない(機会)、暴力をふるうことがその子の未来のためになる(正当化)。「動機」「機会」「正当化」。この3つがそろったときに暴力やハラスメントが起きるという理論だ。ただ、小谷准教授は「生徒のためというのは正当化ではなく、都合の良い言い訳でしかない」と断じる。
行き過ぎた勝利至上主義も暴力を生む一因だろう。強豪校と呼ばれる私学の監督、コーチは「結果」を求められる。大会で勝つことによって学校の名前を広め、生徒を集める。そういった構図が変わらない限り、現場の指導者に重圧はかかる。スポーツを使って別の目的を達成しようとする仕組みが、トライアングルの「動機」につながる可能性もある。
時代とともに、コーチングも変えていく
2012年12月に大阪・桜宮高バスケ部の男子生徒が顧問から体罰を受け自殺した問題を契機に、改革は急ピッチで進んだ。日本スポーツ協会は19年に指導者育成のための新たな「モデル・コア・カリキュラム」を作成。そこではグッドコーチ(良き指導者)に求められる資質・能力として、スポーツ科学や競技の専門的な知識以外に「人間力」を挙げる。コーチングを学び続ける姿勢や内省といった「対自分力」、そして相互理解などの「対他者力」だ。
ただ、自らに染み付いた「常識」を変えるのは容易ではない。小谷准教授によれば、講習会でも時に自己否定されたような感覚に陥り、ふてくされる人もいるという。「1つのアプローチしか持っていないのはまずい。どんどん変わる時代に合わせて、コーチングも絶対に変えていかなければいけない」。過去の自分自身の反省も踏まえ、そう呼びかけた。
目指すべきは「プレーヤーズセンタード」 関わる人全てがフェアプレー精神を
-プレーヤーズセンタードとは。
プレーヤーを中心とし、関わる周囲の人間も互いに学び続けながら成長しようという考え方です。従来のアスリートファーストでは、セカンド、サードは何か、となる。保護者や指導者などの「アントラージュ(仏語で取り巻きや環境を意味)」が我慢してアスリートを最優先で支えるのではなく、あくまでも全体で高め合う場をつくろうという構図です。
-保護者の役割は。
何か問題が生じたときも、保護者が「先生がそこまで言うのならいいのでは」と守る場合があります。上から下への矢印しかない「コーチファースト」の権力構図の中では、そういう心酔のようなことが起きる。指導者や子どもたちと一緒になって考え続けることが必要です。
-指導者に対する制度整備は進む一方、保護者が一体となるような取り組みは途上では。
それはこれからの課題です。どうしても自分の子どもはかわいいし、応援する中で心ないやじを飛ばしたり、保護者同士で対立したりする場合もある。そうではなくて、子どもとの関わり方を勉強しないとまずい。
-プレーヤーズセンタードが浸透していくために、必要な理念は。
その場に関わる人、全てがフェアプレー精神を持つことです。他者をリスペクトし、「最高のパートナー」と捉える。欲望や感情をコントロールする「自制の作法」を身に付け、寛容の精神を持つことも求められます。
例え話の1つです。やんちゃなお兄ちゃんたちが公共の場でたむろしているとしましょう。そこにボールを1つ入れると、自然と「サッカーしようぜ」となる。誰かが手を使えば「ルールを守れよ」となる。結局、フェアでなければ面白くない。こうした価値を根付かせる。そこには暴力が入り込む余地がなくなります。
-暴力が黙認されてきた歴史がある。
スポーツは1850年代、英国のパブリックスクールを中心に広まりました。近代五輪の第1回大会が1896年に開催されますが、殴るや蹴るなどの暴力的な動きがあるスポーツが一般に定着する過程で、関係者は極めて非暴力で理性的なものであると示し続けてきました。それゆえに暴力問題は、スポーツそのものを壊しかねない。だからこそ規律が大事。指導者と選手、あるいは選手同士が互いを尊敬し合う。フェアであろうとすることが社会を変えうるスポーツの価値かもしれません。