コラムニスト ジェーン・スーさん 「もう少し家事をやって」と思ってしまう私 性別ではなく役割が生む意識
専業主婦で「肝っ玉母さん」64歳、がんで死去
母は私が24歳の時、がんで亡くなりました。64歳でした。ユーモアがあり、何が起きてもどっしりと構え、慌てている姿は見たことがありませんでした。専業主婦で、昭和の時代で言えば、「肝っ玉母さん」でしょうか。
父は東京都内の自宅を兼ねたビルで貴金属の販売会社を経営していました。「男は仕事をして家族を養う」という考えで子育ては母任せ。自分勝手で気まぐれ。女性の影もちらつき、母はさまざまな思いを抱えていたと思います。
母の死後、帰宅しても「おかえり」と返ってくる声はなく、あったことを話す人もいない。自分の家なのに、居場所がなくなったようで、母が私と父を包み込んでくれていたことに気付きました。
家に関心ない父…仕事手伝う中で見えた別の姿
父とはよく大げんかをしました。母が亡くなっても相変わらず家のことには関心を持たず、無責任に見え、腹立ちをそのまま父にぶつけました。母の生前は、父とそれほど仲は悪くなかったのですが、母が緩衝材として間を取り持ってくれていたからですね。
3年ほど同居しましたが、お互いの一挙手一投足が気に食わず、私は一人暮らしを始めました。当時は週1度、母の墓参りの時に父と会っていました。食事込みで1時間ほどなら、けんかせずに過ごせました。亡くなってもなお、母が接点でした。
父の仕事がうまくいかず、31歳の時に手伝うために実家に戻りました。そのとき初めて、「父」という肩書以外の姿を見ました。取引先で真摯(しんし)に頭を下げる父を見て、こうやって私たちを養ってきたのだと思いました。結局、売り上げは上がらず、自宅兼会社のビルは手放しました。
母は雑誌の元編集者 私の仕事喜んでいるのでは
コラムを書き始めたのは、30代半ば。会員制交流サイト(SNS)でつけていた日記を読んだ雑誌の編集者から声が掛かりました。母は結婚前に映画雑誌の編集者をしていました。母の記事は見たことがありませんが、同じような仕事で、母も喜んでくれていると思います。
今は8年ほど、同世代のパートナーの男性と暮らしています。4年ほどパートナーが専業主夫だった時期があり、「稼ぎ手」は私。「外で働いているんだから、もう少し家事をやって」と思う男性の気持ちがよく分かりました。
男性への、あるいは女性への不満は、性別そのものではなく、役割が生む側面もある。パートナーとの関係は無理をしてでも存続させる理由はないので、風通しはいい。父ともつかず離れずで、今の関係を続けていきたいですね。
ジェーン・スー
1973年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード会社などに勤務。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のパーソナリティー。著書「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」(2014年、幻冬舎)が第31回講談社エッセイ賞を受賞。1月にエッセー集「これでもいいのだ」(中央公論新社)を発売。