俳優 天野鎮雄さん 機銃掃射から守ってくれた母 妻と継ぐ戦禍の記憶

長田真由美 (2022年1月13日付 東京新聞朝刊)

自らの演劇を語る天野鎮雄さん=名古屋市東区で

家族で福井へ疎開中、空襲に遭う

 僕は戦時中、名古屋市港区で生まれました。産めよ増やせよの時代に、珍しく一人っ子。大事に育てられました。

 おやじは武器をつくる軍需工場に勤めていました。機械の専門家で、戦争に行かなかった。「おまえの親はなんで戦争に行かないのか」と、よその地域の子に言われたことがあります。

 小学3年の頃、空襲で工場が閉鎖され、福井県へ家族で疎開することに。貨車に乗って木曽川を渡るところで「空襲だ!」と急停車。みんなで鉄橋の上を逃げたら、上空から機銃掃射を受けました。隣で人がバタリと倒れる。と、おふくろが僕の上にわーっと覆いかぶさってきたんです。弾がくれば先に当たるのに。家族全員無事でした。母親ってすごいなと思いました。

 福井で終戦を迎えて兵庫県へ移り、中学生の時に名古屋に。クラス対抗の演劇コンクールでシェークスピアの「ベニスの商人」の金貸し・シャイロックを演じたのを機に演劇部に誘われ、それから芝居一直線です。高校時代はラジオドラマにも出るようになりました。ギャラは1回500円で、1カ月の授業料にほぼ相当。だからなのか、両親から演劇はだめだと言われたことはありません。

 おやじは終戦後、大変な思いをしました。戦争中は頼りにされてたのに、周りの態度がころっと変わった。会社もつぶれて定職に就けない。転職に次ぐ転職で稼ぎが悪く、お金がない。戦争に行かなかった人間も悲劇です。戦争は絶対いけない、という思いを強くしました。

戦争への思いは5歳上の妻も同じ

 大学時代に入ったNHK名古屋放送劇団で、妻(女優の山田昌さん)に出会いました。2人の娘がいますが、小中学生の頃、僕はラジオの深夜放送や早朝番組の仕事が入っていて、成長をあまり見てあげられませんでした。でもきちんと育ってくれて、僕は恵まれたと思っています。

 戦争への思いは妻も同じです。2人で改めて話したことはないけれど、5歳上の妻は物心ついた時から戦争中でした。戦争だけはいけないという思いがある。原爆の記憶を語り継ぐ朗読劇「この子たちの夏」も長く続けました。そうした作品を積極的にやろうという気持ちがあると思います。

 若い頃、ある監督に言われた言葉が印象に残っています。「人間さまがつくった世の中、間違いと分かったら人間の手で直せないことはないだろう」。間違いをただすのが人間の力、それを演劇でしようじゃないかと思っています。

天野鎮雄(あまの・しずお)

 1936年、名古屋市生まれ。1968年から東海ラジオの深夜番組「ミッドナイト東海」の初代パーソナリティーを務め、人気を集める。1985年、妻の山田昌さんらと劇団「劇座」を結成。「アマチン」の愛称で親しまれる。6月25、26日に名古屋市で上演される山田太一原作の「ながらえば」に出演予定。