サッカー解説者 松木安太郎さん 特攻隊員だった父が教えてくれた、厳しさと「自由」

植木創太 (2021年9月6日付 東京新聞朝刊)
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松木安太郎さん(プラスワン提供)

小3からサッカー 父は「支援」してくれた

 子どもの頃から千葉県市川市で暮らし、両親は共働きでした。父は建築業などを手掛ける事業家。母は東京・日本橋にある実家のうなぎ料理店で働いていて、2人とも帰りが遅いことがよくありました。私が小学3年からサッカーを始めて、夢中で打ち込んだのは、寂しさを紛らわせるためでもあったと思います。

 そんな一人息子の思いを感じ取っていたかは分かりませんが、父は仕事の合間を縫い、よく試合を見に来てくれました。当初は「どうせ三日坊主」と私を疑っていたようでしたが、本気と分かると、自分も競技に熱が入ったようで、スポーツ店を始めたり、私の所属した読売クラブや地元の少年サッカーの支援にも力を注ぐようになりました。

53歳で死去 病床で私に「ごめんな」と…

 父は昭和2年生まれで、特攻隊員として戦地に赴く直前で終戦を迎えた人。自分にも家族にも厳しく、私も幼い頃は家で起床時間に言葉遣いにと、ビシビシとしつけられました。ただ、やりたいことを妨げられたことは一度もありません。青春時代を戦争に奪われたからこそ、私を自由にさせてくれたようです。

 そんな父は40代後半に肝臓や腎臓を壊し、53歳の若さでこの世を去りました。入退院を繰り返し始めたのは、ちょうど私が日本リーグで活躍し始めた頃。自分でも上達を感じる大事な時期でしたが、練習が終わるとすぐ病院へ行き、母と看病しました。「わが子のオムツを替える前に父親のを替えさせて、ごめんな」。厳しかった父がつぶやいたひと言は、20歳そこそこの私にはこたえましたね。

 父の病は高度経済成長期、家族を支えるために事業を起こし、身を粉にして働いた反動だったのでしょう。自分を振り返ると、試合や遠征が相次ぐ中でよく病院に通えたなと思います。ただ、最期まで寄り添ったと思えるまで看病できたから、きちんとお別れできました。選手として一番良い時期、日本代表になった姿を見せられなかったことだけが残念でなりません。

控え選手のため「松木杯」 今も市川市で

 市川市では、父が亡くなった翌年から、父の名を冠した少年サッカー大会「松木杯」が、地元の指導者の皆さんの力で始まり、今も続いています。小学6年の控え選手を中心にした大会です。「最後の夏に試合をさせてあげたい」という趣旨で、出場してプロになった子もいます。

 小さい頃からうまい子もいれば、体が出来上がってからグッと伸びる子もいる。大事なのは、夢にチャレンジできること。私も体がさほど大きくなく、人一倍頑張らないとトップ選手にはなれませんでした。私を厳しく育てて我慢強さを身に付けさせつつ、自由に挑戦させてくれた。父には感謝しかありません。 

松木安太郎(まつき・やすたろう)

 1957年、東京都生まれ。16歳で読売クラブ(現・東京ヴェルディ)のトップチーム入りし、1983年に日本リーグで初優勝した。日本代表のDFとしても活躍。1993年にヴェルディ川崎(同)の監督に就任し、Jリーグ初代王者に導いた。解説では「松木節」とも言われる熱い語り口が人気を呼んでいる。

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