歌人・作家 小佐野彈さん 裕福な家庭 ゲイだと母に言えなくて
母と兄の理解 きっかけは…失恋
両親は10歳ごろに離婚。母が兄と僕を育ててくれました。僕は、ホテルなどを経営する国際興業グループ社長だった母方の祖父の養子になり、経済的に恵まれた家庭に育ちました。
家の中で母の存在は大きく、母に見捨てられることが怖くてたまらなかった。僕は中学生の頃、自分がゲイだと気づきましたが、母を失望させるのではないかと恐れて、ずっと隠していました。
母と兄にゲイだと知られたきっかけは、僕の失恋でした。大学1年の時、兄の友人だった男性の先輩に気持ちを伝えたものの、ふられました。その先輩は、僕が自殺でもするのではと心配して兄に電話。それを聞いた母から「男を好きだろうが女が好きだろうが何でもいい。ばかなことを考えているなら目を覚ましなさい」と携帯に電話がかかってきました。兄も「おまえは堂々と生きていけばいい」と、ゲイであることを受け入れてくれました。
「道がそれた」罪悪感と申し訳なさ
ただ残念ながら、性的マイノリティーの人が何の支障もなく生きていける社会ではありません。親からしてみれば、できるだけ苦労せずに生きていってほしいでしょう。僕自身の中に、普通になれなかった、道がそれたという罪悪感があり、自分が欠陥のある人間だと感じてしまい、そう感じることに対する申し訳なさも湧いてきました。2017年に同性愛をテーマにした短歌で新人賞を頂きましたが、そうした思いがあるからこそ、歌ができ、物が書けるのだと思います。
受賞後しばらくして、泥酔して帰宅すると、母にこう言われました。「あなたは自分が何者かになったかのように勘違いしている。でも、賞をもらっても、その結果が新聞に何日も遅れて載る存在でしかない」と。傷つきました。僕はずっと「母を満足させなければ」「母に褒められないと」と思っていた。この一件は、お互いに依存するように生きてきた僕と母の関係を見直すきっかけになりました。
母と離れ、自分と家族を振り返る
文筆活動を行ってきた東京と、ビジネスの拠点である台湾を行き来する生活を送ってきましたが、コロナ禍の影響で台湾から日本に帰国できない状態が続きました。物理的に母と離れたことは自分と家族のことを振り返り、自伝的な小説を書くいい機会になりました。原稿は家族への手紙のような感じで書いていました。母は小説を通じて僕のことを見てくれ、「私に対しての抜きがたい愛情を感じた」とも言っていました。
距離があるからこそ、お互いのことを思い、優しくなれることもあります。母は創作意欲をかき立てる存在。永遠に主人公です。
小佐野彈(おさの・だん)
1983年、東京都生まれ。2017年に「無垢(むく)な日本で」で短歌研究新人賞、2019年に歌集「メタリック」で現代歌人協会賞、「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞。自伝的小説に「僕は失くした恋しか歌えない」(新潮社)がある。慶応大大学院進学後に台湾でカフェを起業し、台北市在住。