泉房穂さんの原点は、障害のある弟に冷たかった社会への怒り 「優しい町に変える。絶対に一人も見捨てない」10歳の誓い、今も胸に
2011年、明石市長に 5つの無償化
ー2011年に明石市長に就任後、子育て支援策を次々と打ち出しました。
5つの施策で無償化をしました。18歳までの医療費、第2子以降の保育料、中学校の給食費、公共の遊び場の入場料、子育て世帯へのおむつ定期便で、すべて所得制限なし。子どもは親の持ち物ではなく、親によって子どもを二分すべきではないとの考えからです。
「子どもを応援すると町が元気になり、老若男女みんなが幸せになる」とずっと訴えてきました。法人税を減税しても大企業の内部留保になるだけ。ガラガラの商店街にアーケードを付けても抜本的な解決にならない。物を売る側ではなく、買う側の市民に向けて政策を打ちたかったんです。
予算がないと言われたけれど、優先度が低い事業を削れば実現できた。そして、子育て世代がどんどん移り住んできた。明石の地域経済が回って、商店街や建設業界が潤って、その結果として税収が増える好循環にすることができました。
脳性まひの弟 全校の潮干狩りで…
ー原点には、脳性まひの4歳下の弟の存在があります。
弟が生まれたのは1967年。当時は優生保護法があり、障害者はいない方がいいという時代。障害のある子は不幸で、親も大変だから生まれないようにする、生まれてしまったら見殺しにすると。
弟は酸欠状態で誕生し、障害が残るのは明らかだった。医師は「そのままにしましょう」と言ったけれど、両親は反対を押し切って連れて帰った。それから、私たち家族の闘いが始まりました。
ーどんな闘いでしょう。
弟は一生歩けないと言われたけど、4歳で立ち上がって、5歳で奇跡的に歩き始めました。家族で抱き合って喜びました。これで地元の小学校に行けるって。ところが明石市は歩きにくい子は養護学校(現在の特別支援学校)に行けと。電車とバスを乗り継いで遠くまで。そんなのおかしいでしょう。必死にお願いすると「行政を訴えない」「送り迎えは家族でやる」という2つの条件を突きつけられた。両親は漁師で朝はいないから私が弟の手を握って登下校しました。周りは冷たくて、毎日戦場に向かうような気持ちでした。
一番覚えているのは弟が1年、私が5年生で、全校で行った潮干狩り。弟が浅瀬で突っ伏して転んで、自分で立ち上がれずに溺れたのに、誰も助けてくれない。私が走っていって弟を起こしました。あの日、泥だらけの弟と一緒に家に帰ったときの悔しさは忘れません。なんでこんな理不尽な思いをしないといけないのか。絶対に私が強くなって賢くなって、市長になって、誰かが困ったときに助け合う優しい町にしてやる。そう心に誓ったんです。
職員への暴言で辞職 出直し選挙へ
ー市長選では政党や団体の応援を受けず、与野党が推した候補に69票の僅差で初当選しました。
10歳の誓いを47歳にして果たそうとしたわけです。市長になったのは目的じゃなく手段で、優しい町をつくるスタート。最初から一気に方針転換して、予算を市民に振り向けました。
きれい事を言っても人は優しくなりません。せめて人口を増やして、税収を増やして黒字にして、みんなが腹いっぱいにならないと優しくなれないからね。
ー2期目の途中、道路用地の買収が進まないことに怒り、「火を付けて捕まってこい。燃やしてしまえ」と職員に暴言を吐いて辞職に追い込まれ、出直し選挙で再選しました。
どんなに良い施策をしたって兵庫県のローカルニュースだったのに、いきなり全国のトップニュースになった。役所に非難の電話が鳴りやまなくてここまでかなと思いました。全て自分の責任。言い訳はせず去ることにしました。でも、まだ道半ばって気持ちがあったから思わず涙が出た。
その後、赤ちゃんを抱えたお母さんが明石駅前で、私の出馬を求める署名活動を始めたと聞いてびっくりしました。「今こそ私たちが助ける番」「ありがとうだけは伝えたい」。署名用紙には、そんなコメントがたくさん書いてあって。全国から「暴言市長」としてたたかれても明石市民は味方をしてくれた。その気持ちに押されてもう一度、選挙に出ると決めました。
結果は圧勝で、逆に「なぜ暴言市長が再選するのか」と全国の人が関心を持つきっかけになったと思います。とはいえ、暴言については反省しています。
「泉さんのおかげで高校に行けた」
ーコロナ禍でも、素早い支援策が評価されました。
商店街に人がいない。店主は「テナント料が払えない」「1人親家庭のパートさんに休んでもらったから、子どもが腹を減らしているだろう」と気にしていた。その場で「両方やります」と言って職員に指示して上限100万円の緊急貸し付け、1人親家庭には5万円の現金給付をしました。
コロナ禍で親が失業し、大学生が中退になりそうだと聞いて学費を市が肩代わりして払いました。ひとり親家庭の中学生が高校に進学するための給付型奨学金もつくりました。定員30人を大幅に超える申請があって、応募書類を読んだら切実で涙が出た。結局220人分の予算を付けました。
最近うれしいことがあって、飲食店でご飯を食べて外に出たら、バイトの女の子が追いかけてきて「私は泉さんのおかげで高校に行くことができています。ありがとうございます」と。30人で切っていたら、その子は外れたかもしれないわけです。
やっぱり原点は弟。たった一人ぐらいしょうがないなんて言ったら、うちの弟は学校に行けなかったし、命も救われなかった。絶対に一人も見捨てない。強烈な思いでやってきました。
明石でできたことを全国に広げたい
ー3期12年を務めて、昨年4月に退任しました。今後やりたいことは。
明石市は政策を変えたら町が変わって、市民の気持ちが変わりました。以前は明石駅前でベビーカーで子どもが泣いても冷たかったけれど、今はみんなが笑顔で「元気な子やね」って言う町になった。障害者団体の人も昔は遠慮して駅前に行けなかったけれど、今は「荷物持ちますよ」って人が駆け寄ってきてくれると言っている。
明石でできることは他の町でもできます。次は日本全体に広げていきたい。30年前から給料は変わらないのに、社会保険料や物価は上がり、夢を持とうとしても持てない。将来が不安でプロポーズも子どもも諦める。ここまで国民の生活が追い詰められているのは、おかしいじゃないですか。
逆にその状況というのは、一気に転換を迎える可能性があるとも思います。今はまさに夜明け前。最も暗くて寒くて、一番しんどい状況。冷たい社会を変えようとする政治家を選んで、みんなの力で夜明けを迎えようと言いたい。「おかしい」と多くの国民が気付いたらバタバタと変わる。オセロをひっくり返すように、日本全体を優しい町に変えたい。そのために、全力で走り続けるつもりです。
インタビューを終えて
貧しい漁師町出身の生い立ちから政治を志した原点、今後の展望まで。関西弁で身ぶり手ぶりを交えながら、3時間ぶっ通しで語り続けた。4歳下の弟の話になると、急に声を震わせた。「弟はいいやつなのに、障害があるだけで亡き者にしようとした。世の中は理不尽に満ちてるんや!!」。大粒の涙を流して感情を爆発させた。幼少期から胸で燃やしてきた強烈な怒り。だからこそ、反対派から自宅に動物の死骸を投げ込まれても、殺害予告が殺到しても、社会を変える闘いを貫けたのだろう。「明石の次は国や」と息巻く泉さん。還暦を過ぎてもなお、みなぎる闘志に圧倒された。
泉房穂(いずみ・ふさほ)
1963年、兵庫県明石市二見町生まれ。東京大教育学部卒。弁護士、社会福祉士。NHK、テレビ朝日「朝まで生テレビ!」のディレクターを経て、2003年の衆院選で初当選し、1期を務めた。2011年に明石市長になり、子どもの医療費など「5つの無償化」を実現。高齢者や障害者福祉にも尽力し、人口や税収増につなげて「明石モデル」と注目された。2019年に市職員への暴言問題で辞職、出直し選で再選した。2023年4月に退任し、現在はテレビ番組などでも多彩に活動する。「子どものまちのつくり方 明石市の挑戦」(明石書店)、「日本が滅びる前に 明石モデルがひらく国家の未来」(集英社新書)など著書多数。
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