料理家 栗原友さん 乳がん治療のつらさ、娘の「大丈夫?」が癒やしだった

(2021年7月4日付 東京新聞朝刊)

(由木直子撮影)

乳がん手術 直前まで母に伝えず

 父(元キャスターの栗原玲児さん)が肺がんの再発で「余命半年」の宣告を受けたのは、2019年3月でした。その約2カ月後、私は自分の胸のしこりに気づき、乳がんのステージ2と診断されました。

 検査で遺伝的にがんになる可能性が高いことも分かり、病巣のある左胸の全摘手術に加え、右胸の予防切除も決めました。ただ父の看病で大変だった母(料理研究家の栗原はるみさん)に、さらに心配をかけたくなかった。ぎりぎりまで隠し、手術まで約2週間となった7月になって伝えました。母は「どうして言ってくれなかったの」と泣いていましたね。

 8月、父が85歳で永眠し、母は喪失感から毎日泣き暮らし、憔悴(しょうすい)しきっていました。落ち込んだ母のことは、私とも大の仲良しの弟(料理研究家の栗原心平さん)が気に掛けてケアしてくれました。

つらい抗がん剤治療 髪も抜けて

 私は7月に手術し、9月から抗がん剤治療で、ひたすらつらい時期でした。髪の毛も抜けて、外に出掛けたくないし、誰にも会いたくなくて。そばで「大丈夫?」と声をかけてくれる一人娘(6つ)の存在が癒やしでしたね。しんどい時は母に娘の保育園の送り迎えをしてもらったり、家族のご飯を作って届けてもらったりすることもありました。昨年、卵巣も予防切除しました。がんの再発リスクが高いので、今も定期的に検診に通っています。

 夫(39)は、とにかく仕事人間で。7歳年下で、以前働いていた東京・築地の鮮魚店で知り合いました。働き者で食べることが好き。鋭敏な味覚の持ち主で、「この魚にはあの食材が合う」といった料理の発想もすごいんです。「この人といたら、ずっとおいしいものが食べられる」と思いましたし、その予感は外れていませんでした。「料理人になればいいのに」と思うほどですが、本人は鮮魚店一筋。魚のことが心配で、休みも取りたがりません。

夫は戦友 一緒に会社を育てたい

 私は独身時代、メニュー開発などを手掛ける会社を立ち上げています。夫は3年前、私の会社に入り、昨年、社の事業として築地に念願の自分の鮮魚店を構えました。夜中に起きて市場に向かう昼夜逆転の生活なので、子育てを含め家のことはほぼ私がやっています。

 仕事いちずの夫と、家族全体も考える私。考え方の違いから経営を巡って口論になることもありますが、働き者の彼が入って会社の業績がぐんと伸びました。私ががんになっても、彼がいたから会社を続けることができました。

 娘も大きくなったら、料理や鮮魚店の仕事をしたいと言っています。娘のためにも、今は戦友の夫と一緒に会社を育てていきたいです。

栗原友(くりはら・とも)

 1975年、東京都出身。雑誌編集などを経て2005年から料理家として活動。魚をさばけるようにと、2011年から鮮魚店で勤務。2020年、鮮魚店「クリトモ商店」を開く。近著に「魚屋だから考えた。クリトモのかんたん魚レシピ」(文芸春秋)。

コメント

  • 私の母も昨年乳ガンになりました、左胸全摘しました。 高齢なのにまさかの癌になってしまい、本当にかわいそうでした。 世の中から癌がなくなればいいのにっていつも思います。 毎日健康でいさせてくれるこ
     
  • くれぐれもご自愛ください 気をつけてください 体調 心配してます。 ご家族様にも