産婦人科医 対馬ルリ子さん 「ママなんか、いつもいないじゃん」と言っていた娘たちが選んだ道は…

(2019年3月10日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

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(木口慎子撮影)

祖父は弘前大の医学部長 大好きで、ほめられたくて

 子どものころは祖父が大好きで、月1回は当時住んでいた青森県の八戸から弘前に会いに行っていました。生理学の研究者で、弘前大の医学部長や学長を務めました。行動力があり、文部省(当時)に足しげく通い、地方の医療や教育の発展のため予算は必要と訴え、獲得していました。

 ユーモアもありました。中学のころ、テストで1番でも何も言わないのに、2番だと「そうか、よくやったね」とにっこりしたり。「弘前大に進んでほしい」と言っていたので、私が医師を目指したのは、祖父にほめられたい気持ちがあったのかもしれません。私が高校3年のときに亡くなりましたが。

父は耳鼻咽喉科 大学に進む私に、衝撃の告白を…

 医学部進学は両親も応援してくれました。耳鼻咽喉科の医院を開いていた父は「医院の跡を継いでくれれば楽ができる」。そこは反発しましたね。母は手に職を持たないまま20歳で結婚し、父より立場が弱かった。私と4歳下の妹には、自分の力で生きていけるよう資格を取らせたいと考えました。

 東京大を受験しましたが失敗し、二浪して弘前大に合格すると、父は私を呼んで驚くことを言い出しました。「弘前に行ったら、おまえにそっくりな人がいると言われるかもしれない」と。四つ下の妹とは別に、双子の妹がいると初めて知ったんです。母は抵抗したそうですが、祖父母から「双子の育児は難しい」と説得され、妹は祖父の知人の家に引き取られました。

 大学の間にその妹に会うことはありませんでしたが、まったく同じ顔の女の子がいるなら私の価値は何だろうと思いました。ユニークなことをして、誰にも似ていない自分になろうと考えました。ロックバンドに入って学園祭で演奏したり、医学部の女子で会をつくり、卒業後の働き方を調査したりしました。

双子の妹と32歳で初対面 薬剤師になっていた

 勤務医時代に長女と次女を出産しました。当直が多く、夜間は子どもの世話を消化器内科医の夫に任せることが多かった。

 次女は産婦人科医になり、長女も医学部に入り直して勉強中です。「ママなんか、いつもいないじゃん」と言っていた2人が同じ道を選んだ。仕事を続けてきたことを認めてくれたのかなと。治療について次女に相談され、それに答えることもあります。ちょっとうれしい会話ですね。

 双子の妹とは32歳の時に対面しました。お互いに子連れだったので東京ディズニーランドで。4歳下の妹と似ていると思いました。偶然ですが、双子の妹と四つ下の妹は家も近く、今もよく一緒にいて双子みたい。それぞれ薬剤師と歯科医師で、女性の健康に関する催しを3人で一緒に開いたりしています。

対馬ルリ子(つしま・るりこ)

 1958年、青森県弘前市生まれ。1984年、弘前大医学部を卒業。東大病院や都立墨東病院周産期センター産婦人科医長などを経て、2002年にクリニックを開院(現・女性ライフクリニック銀座)。思春期から老年期まで総合的に診る「女性外来」の先駆けになった。NPO法人女性医療ネットワーク(東京)の理事長も務める。

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