3つの難病を抱えるご当地タレント 塚本明里さん 腫れ物扱いしない母のおかげで明るくいられる

長田真由美 ( 2020年9月27日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

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(布藤哲矢撮影)

高2で発症 16人目の医者でやっと病名

 私は3つの病気の患者です。インフルエンザの高熱のような倦怠(けんたい)感が続く「筋痛性脳脊髄炎」、24時間全身に痛みが走る「線維筋痛症」、髄液が減るため頭を起こしているのが難しい「脳脊髄液減少症」で、高校2年の時に発症。最初は風邪かと思いましたが、治らない。異常に体が重く感じ、締め付けるような痛みにも襲われました。

 母と2人で病院を回り、1年半後、16人目の医者に出会ってようやく病名がついた。痛みを疑いの目で見られることもあって、母は赤飯を炊き、父や2人の兄とともに家族全員で喜びました。

週2日、40カ所に麻酔して3時間休める

 今は週に2日、麻酔注射を40カ所にしています。痛みが和らぎ、それから3時間だけ休めます。普段は朝起きると全身がぎゅーっと絞られるような痛み。体調によっては一日動けません。頭を起こし続けていると倒れてしまうため、普段は横になっています。

 移動はリクライニング機能のある車いす。前が見えず自分で動かせないので、外出はいつも母にサポートしてもらっています。母は私の介助のために仕事をやめました。それでも、「娘がいろんなところに連れて行ってくれる」と言ってくれます。

「心は変わってない」と言ってくれた母

 母は明るくてアクティブ。料理も裁縫もできてコミュニケーション力も抜群。「明里の心は変わってない」と言い、病気になる前と変わらず接してくれています。腫れ物を触るように扱われていたら、普段の自分でいられなかったと思う。心が明るくいられるのは、母のおかげです。

 車いすで、友人のモデルを応援する姿が、今の芸能事務所の社長の目に留まり、商店街のゆるキャラの広報担当として活動を始めました。当初は、十分に活動できない自分にいら立つことも。痛みがつらすぎて、周囲へ感謝の気持ちを忘れたこともあった。そんな時は母に叱られました。「みんなのおかげで仕事ができている。一人でできると思わないで」と。

夢は、車いすで朝の情報番組に出ること

 一つ一つ、今できることをこなすことで、成功体験が増えた。できないことを数えるのではなく、できることを数えるようになりました。

 つらくて家でつぶれた姿は母しか知らない。悲しくて泣いたことはないけれど、悔しくて一人で泣いたことはある。そんな私を見守ってくれ、本音が言えるのも母です。

 父は「自分が稼ぐから、お金はいくらかかってもいい」と治療することに対して背中を押してくれました。

 夢は、車いすの姿で朝の情報番組に出ること。いずれ、金銭面や体調も含めて自立できることが、家族への恩返しになると思っています。

塚本明里(つかもと・あかり)

 1990年、岐阜県可児市出身。2011年、当時、岐阜市の柳ケ瀬商店街のゆるキャラだった「やなな」の広報として、活動を開始。2012年、筋痛性脳脊髄炎を啓発しようと患者会「笑顔の花びら集めたい」を発足させた。2019年に県ヘルプマーク普及啓発大使に任命。可児市ふるさと広報大使、岐阜大ゲスト講師などを務め、各地で病気を啓発する講話に取り組む。

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