気象予報士 森田正光さん 難しくても「あなたなら読める」 叔母がたくさんの本を届けてくれた

(2020年9月20日付 東京新聞朝刊)
子育て世代がつながる

家族のこと話そう

(高嶋ちぐさ撮影)

叔母は1番の成績だったのに

 4人きょうだいの3番目だった僕は、本の大好きな子どもでした。叔母が嫁ぐまで同居していて、共働きだった父母に代わって映画に連れていってくれたり、本を買ってくれたりしました。叔母は中学を1番の成績で卒業しましたが、進学はせず、銀行に勤めました。学歴に対し、じくじたる思いがあったようで、「しっかり勉強しないと」とよく諭されました。

 小学3年の時、溶連菌感染症から起こるしょうこう熱にかかり、市民病院に隔離されました。当時はまだ抗生物質がなく「法定伝染病」だったんです。症状は軽く入院生活を持て余していると、叔母が本をたくさん届けてくれた。大人向けのグリム童話とか、難しい内容が多かったのですが「あなたなら読める」と。

父と通ったプラネタリウム

 板金職人の父には、よく叱られました。僕はよく言えば好奇心旺盛で「これをやったらどうなるんだろう」と想像し、やってみたくなる性分。例えば、家の外にあるくみ取り式の便所はうじを退治するため石油がかけられていたのですが、「火を付けた方が早い」とマッチをすったところ、勢いよく火が付いて便所の屋根まで燃えそうになった。父に「バカやってんじゃない、出ていけ」と怒鳴られ、げんこつを恐れて逃げ回った記憶があります。

 厳しい父でしたが、優しい面も。小学6年の時、名古屋市科学館に大型プラネタリウムが完成し、父が「東洋一だがや」とうれしそうに話すので行ってみると、ギリシャ神話とか、解説員の話が面白くて。父と毎週のように通いました。今思うと、それが天気の仕事に影響したのかもしれません。

 その2年後、東京五輪の開会式があった夜、テレビを見ていた父は突然、脳出血で倒れ、3日後に亡くなりました。

母のように穏やかな最期を

 母は僕たちを育てるため、近くの病院で清掃やまかないの仕事をするなどして働き続けました。控えめな性格で何事も「まあええ、仕方がない」と受け入れる人でした。僕がテレビに出るようになっても、「そういえば出とったなあ」と声をかける程度。自慢するものではないと思ったのでしょうね。

 母は8年前、老衰で亡くなりました。96歳、大往生です。ろうそくの火が消えるように旅立ち、ほほ笑んでいるように見えました。大げさな葬式は本人も望まないと考え、親族だけで送りました。

 「まあええ、仕方ない」は母の生きる知恵であり、僕が学んだところです。いつか僕も母のように穏やかに死にたい。テレビに出ていると、ひっそりと逝くのは現役の間は難しいので、今は節制して元気でいたいと思います。  

森田正光(もりた・まさみつ)

 1950年、名古屋市生まれ。1969年、高校の担任の勧めで、当時の日本気象協会東海本部に入社。1974年に東京本部に移った後、お天気キャスターとしてテレビ出演。1992年にフリーになり、民間気象会社ウェザーマップを設立。現在、TBSテレビ「Nスタ」にレギュラー出演し、執筆や講演活動も行う。

元記事:東京新聞 TOKYO Web 2020年9月20日

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