歌手・女優 あべ静江さん 歌で人に希望を与えた母

稲田雅文 (2018年1月28日付 東京新聞朝刊)

家族のこと話そう

両親や家族について話すあべ静江さん

両親や家族について話すあべ静江さん(安江実撮影)

新聞にゆかり

 出身の三重県や松阪市が大好きで、「みえの国観光大使」や「松阪市ブランド大使」を務めています。活動するうち、私を突き動かしているのは母方の血筋なのかなと思うようになりました。

 母方の高祖父(祖父の祖父)の松本宗一は、伊勢新聞を創刊した人。とっても大きなお屋敷が津市にありました。祖父も新聞の仕事を手伝い、軍や警察から目を付けられて逮捕されたこともあったそうです。戦時中に上海で一旗揚げましたが、終戦で帰国すると無一文。自分の生活もままならないのに、引き揚げてきた人を支援していました。

 母は歌の才能があり、のど自慢大会に出て優勝すると、賞品を引き揚げ者に寄付したそうです。全国大会で優勝してレコードデビューの話が出たころは、既に私がおなかにいました。祖父母の猛反対を押し切って、父の実家だった松阪の小間物店に入り、私が生まれました。

ラジオDJとして

 私が11歳、弟が生まれるまで、母はラジオ三重(東海ラジオの前身)の専属歌手として番組を持っていました。父親は専属バンドの一員。私も一緒に慰問に行って歌ったり、子役でテレビドラマに出たり。でも、両親は私を歌手にしようとは思わなかったようで、歌を指導されたことはありません。ただ、父のバンドのメンバーの前で鼻歌を歌うと「そこは違う」とうるさかった。

 名古屋の短大入学と同時に「芝居の勉強をしたことがない」と、タレント養成校にも通いました。語り手養成に力を入れていた学校で、1年後の卒業とともに、DJとしてラジオ番組を二つ持たせてもらえることになりました。

 番組で歌ったら注目され、レコード会社などから声がかかりました。DJが楽しかったので断ったのですが、父のバンドのメンバーで幼いころから世話をしてくれた人に、両親の前で頭を下げられて。母は「自分で決めなさい」と言うだけ。断れなかった。

 当時、母が歌手をしていたことは分かっていましたが、ラジオの仕事をしていたとは知りませんでした。今思えば結局、私は両親の後ろ姿を追いかけていたと感じます。

人を助ける活動を

 私は歌手として母を超えられなかったと思います。今でも地元で「松本ひさの娘さん」と言われるんですよ。戦後間もないころ、歌で地元の人に希望を与え、心に残った。たぶん、多くの人の夢も背負っていたと思います。

 大使以外にも、名古屋市の医師と自動体外式除細動器(AED)を普及する曲を歌ったり、「骨髄バンクPR隊」としてイメージソングを歌ったりしています。「人を助ける活動をしたい」と思うのも、母からの血筋でしょう。

あべ・しずえ

 1951年、三重県松阪市生まれ。73年に「コーヒーショップで」で歌手デビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。続く「みずいろの手紙」も大ヒットした。74年、テレビドラマ「真夜中のあいさつ」で女優デビュー。日本歌手協会理事を務め、最近は60~70年代に活躍した歌手が出演するライブ「ヒットソングジャパン昭和 同窓会コンサート」で総合司会を務める。

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